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  • 2022.08.15

今週のメッセージ「目を上げよう」

「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。私の助けは主から来る。天地を造られた方から。」詩篇121:1-2

「富士山は実際に存在していないでしょう。」笑いながら、3年間玉聖で教えたアメリカ人の英会話の先生が言いました。夏休みに富士山を一緒に登る企画をたてようとしていた時、彼は3年も東京に住んでいたのに、富士山の姿をほとんどはっきり見たことはなかったそうです。もちろん、彼は富士山が存在していることは知っていましたが、山を見るチャンスがある度に、その姿は雲に包まれていたようでした。

私は最近、玉聖の中1のオリエンテーションキャンプ、高1のCFLキャンプが行われる御殿場市にあるYMCA東山荘にいた時、この話を思い出しました。朝に青空が広がっていたので、富士山の写真を撮ろうと思って、山が見えるはずの近くの池まで歩いて行ったけれども、やはり、周りの空はきれいに晴れていたにもかかわらず、富士山の姿は雲に隠れていました。この山は本当に存在しているのかなと言った英会話の先生の話を思い出しました。
もちろん、私たちは富士山の存在を知っています。よく雲に包まれることがあっても、たくさんの写真を見たばかりか、実際に自分の目で山を見たこともあるでしょう。さらに、毎年約25万人が登山すると同じく、私は頂上まで登ったことがあります。だれも富士山の存在を疑いません。
この富士山の話は私たちの神体験を思わされます。神様が実際に存在しますか?と私たちは思う時があります。神様についての話を聞くし、心に何か感じたことがあるかも知れませんが、自分の目で見たことも、その声を聞いたこともありません。ただし、今まで直接に体験がないからと言って、神が存在しないとは言い切れません。逆に、信仰を持っている人でも、時には神様の存在を問うことがあります。旧約聖書の中で、「神の御心にかなう人」(第一サムエル13:14)と呼ばれたダビデ王さえも、「主よ、なぜ、私に御顔を隠されるのですか」と嘆くこともありました(詩篇88:14)。

ここに信仰が必要です。神様はいつもご自身の臨在をはっきり表さないでしょうが、私たちは神様がおられることを確信することができます。それは、私たちが以前に受けた恵みを思い起こし、そして聖書にある変わらない神様の約束をしっかり握り締めることによってできるのです。ダビデさえも時には神様の御姿を感じ取ることはできませんでしたが、彼は「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。私の助けは主から来る。天地を造られた方から」(詩篇121:1-2)と言いました。
私たちも目を上げて、必要な助けは、常に共におられる神様から来ることを信じましょう。

理事長バーナード・バートン

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