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  • 2022.03.22

卒業式が行われました。

3月16日(水)に高等部、17日(木)に中等部の卒業式が、礼拝としてささげられました。
コロナ禍の2年間を含めた特別な時間を玉川聖学院で過ごした生徒たち。立派に成長し、それぞれが磨かれた心とともに卒業しました。
卒業生代表による感謝のことばが、生徒たちの正直な思いを伝えていました。全文を掲載しますので、玉川聖学院の学校生活で彼らが何を感じてきたのかを共有していただければ幸いです。


感謝の言葉

「今は我慢」この言葉を、この二年間、メディアでも学校でも多く耳にしてきました。
三年前、内進生、高入生、互いが抱えた多くの不安とともに、高校生活への期待を持ってこの場所で入学式を迎えました。幼い頃に描いていた華やかな憧れの高校生活とは当然ギャップがありながらも、当たり前のように日々の生活を送り、重たい気持ちでテストを受け、様々な行事を体験し、新たな友達とともに笑顔がすぐそこに見える一年間を過ごしました。高校生活を人間学のように四季で例えるならば、二年生は夏。一年生で蓄えてきた力、学んできたことを他者のために生かし、精一杯、力を発揮したいと待ち焦がれていました。しかし、実際の春が見えかけた時期には、唐突に高校生活の冬がやってきたのです。
高校時代は今しかない、今しかできないことがある。「今は我慢」という言葉が飛び交うたびに、葛藤を抱え、時間を巻き戻してやり直したいとどれだけ願っても、一日一日は私達のことなど関係ないかのように淡々と過ぎていきました。
そのような中でも、私たちはたくさんの希望を抱き、目標に向かって歩みを重ねて参りました。その度に失望を味わい、努力は報われないと嘆き、人生までもが否定されたような気がしたこともありました。特に修学旅行に行けなかった悔しさは今も言葉にできません。ですが、それでも、高校生活を振り返って思い出すのは、笑いの絶えない思い出ばかりです。特に修学旅行の代替プログラムとして行われた学年だけのミニ体育祭。変えられない現状を嘆くのではなく、制限のある中で何が出来るかを考え、辛さをかき消すように、皆で体を動かし、精一杯楽しんだあの一日は、今も鮮やかに残っています。予期していなかった出来事さえも、今しか味わえない悔しさにみんなで泣いたことさえも、ありのままの気持ちを分かち合った瞬間は、出来事以上の思い出として、どれも心に刻まれています。そしてなにより、普段の放課後、何気ない日常が、友達の笑い声とともに、溢れんばかりの思い出として今、胸にこみあげてきます。
気持ちを共有しあった三年間
ぶつかりあった三年間
挑戦してきた三年間
思いやり合った三年間
様々な思い出と共に抱いてきた多くの感情の中で、この三年間は、たくさんの人に支えられてきました。
特にこれからの人生を左右するような試練である大学受験において、受験への不安、焦り、辛さを抱え込んだ心の救いになってくれたのは友達、家族、先生の存在でした。
お母さん、お父さん。いつも私達の1番の味方であり、私達の可能性を私達以上に信じ、あらゆることをサポートしてくれたことに、心から感謝しています。
先生方。先生がいなければ、私たちは自分の決めた進路に自信を持って進むことも、出願することも、合格することもできませんでした。忙しい中、一人一人と向き合い、思いや夢を一緒に背負って共に歩んで下さったこと、感謝してもしきれません。
そして、高校生活において、どんなときにもそばにいてくれたかけがえのない存在であり、愚痴や辛さを笑いで吹き飛ばし、焦りや不安を何度も何度も慰め合った大切な友へ今後の願いと併せてこの言葉を伝えたいです。
「ありがとう、そしてこれからもよろしく」
神様がご用意してくださった玉川聖学院での全ての出来事への感謝とともに、今後待ちうける多くの出会いに期待を持って、今日、私たちは卒業という名のスタートを切ります。理不尽な現実を突きつけられ、この世界に当たり前はないと学んだ高校生活でもありました。悔いはないとは言えませんが、前例のない状況下で私たちらしい学年を作り上げてこれたことを私は誇りに思います。今後も自分が思う変わらないものを信じ、選択した道に自信をもって、与えてくださったたくさんの賜物をいつの日かそれ以上のものとして返せるように一歩一歩、歩んで参ります。伝えるべき感謝は多くありますが、最後に御言葉をもって感謝の言葉とさせていただきます。

旧約聖書 伝道者の書 3章11節
神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。
2022年3月16日 卒業生代表  山口殊里亜

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