いつまでも残るもの
~この時代の教育を考える~

  • 2018.06.26

わたしは生きている

今年も横浜のみなとみらいホールで玉川聖学院音楽会が開催され、生徒たちの合唱を聞くことができた。昨年までは役割としてステージ下に待機しながら見守っていたが、今年は上の階の審査員の近くの全体を見渡すことができる席で、一つひとつのクラスが、心を合わせて、魂を響かせようとしている姿を見ることができた。
音楽は人の魂の根源を揺り動かす。そして歌は生きる力を与えてくれる。あの戦争中にヒトラーによって強制収容所に入れられたユダヤ人たちは、絶望の淵で歌うことにより魂の崩壊を免れようとしたと言われるが、子供の頃に歌った歌は魂の奥底に留まり続けるのだろう。思春期のある時期に皆で歌ったそれぞれの歌は、心の深いところに蓄積され、何かの時に大きな力になるに違いない。そのような体験を重ねられる生徒たちの幸いを感じていた。
先週末、6月23日は沖縄慰霊の日だった。毎年、全戦没者追悼式で、若い世代が自らの決意や思いを訴える機会が与えられている。今年登壇した中学3年生相良倫子さんが語った自らの「平和の詩」の朗読に、心打たれた。彼女は自分の言葉で、自分の思いを精一杯自作の詩に託して語っていた(毎日新聞ニュース動画6月23日)。

沖縄が過去において抱えた傷の大きさに思いを馳せる。また、現在も背負っている課題も考えさせられる。基地の問題は日常的に続いているし、子供の貧困率が極端に高いという経済、置き去りにされている感を否めない政治の現実がある。そんな中「大好きなわたしの島、誇り高きみんなの島」と心を込めて語る中学生の姿に感動した。ここにあるのは偏狭な閉じた愛国心ではない。開かれた未来の希望への決意。そして戦争中の悲惨な記憶を語り継ごうとした曽祖母から手渡された、悲惨な戦争の本質への拒絶と平和への強い想い。何よりも今を精一杯生きようとする誓いの宣言。ひとつひとつの言葉が、彼女の人格から発せられた生きた言葉をして伝わってきた。このような中学生を生み出す沖縄の人々の想いも同時に伝わっていた。
最近メディアを通して伝わる情報の多くが、記号化されたコトバと無機質でタテマエに終始するコトバとなり、人格から遊離してしまっていることに虚しさを覚えることが多いだけに、相良倫子さんの言葉は生きていて伝わってきた。大切なものは、人から人にしか伝わらないと思うが、彼女の言葉は魂に響いてくる言葉だった。
対話の必要性が強く強調されている。それだけ対話のない時代を私たちは生きているのかもしれない。それは言葉が人格から離れてしまったからだろう。国会で語られる言葉の虚しさに閉口させられる。ポール・トゥルニエは、「暴力と人間」の中でこのように書いている。
「真の対話が行われるのは、きわめて稀である。普通行われている話し合いといえば、互いを脅しあったり、牽制し合ったり、聴く耳を持たない者同士が、ただ相手をやりこめるためだけに、たたみかける議論などであって、互いに本当に相手を理解しようという気持ちで話の場に臨む人はきわめて少ない。」
言葉が人格から離れると、汚い言葉、恥ずかしい言葉、忌むべき言葉が無造作に口から出てくる。ヘイトスピーチや誹謗中傷の言葉の数々が氾濫するこの国の現状は、まさに魂に届く言葉を失ってしまったからだろう。こういう中学生から学びたい。同時に彼女がこれから直面する様々な問題の中でも「ありったけの感覚器と感受性」を働かせて成長していくことを切に祈りたい。

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