いつまでも残るもの
~この時代の教育を考える~

  • 2018.05.01

一人一人が輝いている姿に触れる幸い

今年の体育祭はオリンピックの準備で例年の代々木第一体育館が使用できなくなった事もあり、駒沢屋内競技場で行われた。数十年前に東京オリンピックのバレー会場でもあった古い体育館で行った事を懐かしく思い出していたが、ややこじんまりした会場であったが、新しい快適な環境で、生徒たちがのびのびと走り回る様子を観客席から見せてもらった。

会場が狭かったせいか、生徒たちの表情や動きが全体として見渡せた体育祭であった。例年のように競技や演技に熱心で心を込めた真摯な姿は、見ているものを魅了した。そしてこの一体感は何なのだろうと考えさせられた。このような学校行事(特別活動)には、スクールアイデンティを形成するという目的があることが学習指導要領の中にも書かれている。だがここで繰り広げられている生徒たちの一体感は、集団形成という目的とは異なった別の教育の現実の姿のように思えてならなかった。それは本当に、個人が個人として伸びやかに活動する事を通して、皆の共感能力が引き出されていくという教育の現実だ。

今年から小学校で、来年度から中学校で、道徳が教科として扱われるようになっていく。キリスト教学校ではその時間を宗教(聖書)で代替え出来るという規定は変わらないが、この国の教育カリキュラムの中に、道徳教育が大きな比重を持ってくることが予想される。すでに評価の問題など現場での戸惑いが報道されているが、道徳的態度が評価されるというあり方は、内心の自由を妨げるのではないかと懸念されている。しかし、国民の7割近くがこの道徳の教科化には肯定的であると報じられているのも事実だ。大人社会のあまりの破廉恥、不道徳に接して、冷めてしまっている子どもたちに、何をどのように教育するというのだろうか。正されるべきは私たちの国の欲望をそのまま肯定する価値観であり、人との断絶を容認している社会システムの問題であり、本来のあるべき姿を無視して、私利私欲に走る政治や行政の乱れであり、人権感覚を持たずに他者を誹謗中傷し、被害者に二重の苦しみを与えてしまっているメディアや報道のあり方の問題なのではないか。

このたびの「道徳」には、社会との関わりという領域に最も多くの分量が割かれているが、公徳心や社会や国家のために貢献することの意義が強調されている。個人の尊厳を守ることより公共の福祉を優先する思想が大事なこととされ、集団主義的傾向が強く打ち出されている。大事な視点ではあるが、目的と動機が逆転していかないか心配している。教育基本法で教育の目的として掲げられているのは「人格の完成」であり、人格の固有性が教育の大前提であるはずだからだ。極めて利己的な社会を変革するために、集団の維持形成の大切さが強調されているのだろうが、学校行事もそのことのために用いられることが期待されているのは、少し逆立ちした議論ではないかとも思うのだ。

生徒たちが見せてくれた姿は、それぞれが個人として輝いている姿であり、その総体が結果として一体感を生んでいる点に特徴が見られた。歩行に障害を持つ生徒も車椅子の生徒たちも、嬉々としてフロアーに降りて参加していた。競技に参加できない生徒たちもカウンセラーや養護の先生たちとともに、フロアーにいて参加していた。それぞれの個性や賜物を生かし合った演技や競技は、美しいまとまりを醸し出していた。閉会式に参加している生徒たちの表情を見ようと、双眼鏡で一人一人にフォーカスしてみると、最も多く犠牲を払っていた実行委員や創作ダンスを見事に踊りきった高3の生徒たちはいうまででもないが、どの生徒の顔にも満足感と達成感があふれていた。ユングという心理学者が用いた「共時性」(シンクロニシティ)という現象は、気持ちが響き合う時に起こる不思議な一致を指しているが、そのような現実が、この駒沢屋内競技場に見られたのは、なんとも心地よい光景であった。幸いな一日だった。

月別に見る