いつまでも残るもの
~この時代の教育を考える~

  • 2017.08.21

キリスト教教育同盟リトリートに参加して

夏休み期間には様々な研修が続いている。各クラブの合宿、勉強合宿そしてバイブルキャンプ、ワークキャンプ、フロリダ英語研修、ヒロシマ平和研修、今週は被災地へのボランティアキャンプや社会科の京都研修が続けられていく。それぞれが良い成果を上げて、生徒たち一人一人の心の中に刻み込まれて行く体験となるだろう。日常から離れることで見えてくるもの、気づけることも多いと思われる。これらの場を提供するところに学校教育のもう一つの使命があるのだろう。

 教員たちにも様々な研修機会が夏に用意されている。教科の研修、宿泊研修会などが用意されている。この夏もキリスト教学校教育同盟が主催する「中堅教員リトリート」で発題する機会が与えられた。「立ち止まって振り返ること」を目的とした研修に全国から40名数名の教員が集まり、自分が今置かれている立ち位置を確認しながら、自分に与えられている使命について考える時間を持った。日頃、忙しく日常を送っている教員たちが静まりと黙想の時を持つことで、自分と向き合う幸いな時を持つことができた。

 私は昨年と今年、二度に渡って自分自身の40年の教員生活を振り返って感じてきたこと、わからされたこと、言葉にすることがやっとできるようになった事柄を、正直に語るという作業を通して、参加者に問題提起を行うことができた。発題の最後にトゥルニエの言葉を引用して締めくくった。

「全人生を通して、この失敗だらけの骨の折れる歩みが人間を教育するのである。彼は何にでも成功する恵まれた人々ははなはだしく人間理解に欠けることを知る。はじめ、失敗するごとに彼は辱められ、いらいらするが、過ぎたあと、失敗の価値が分かるようになる。医師であれば、彼は診断や治療の過ちをいつも思い出し、それによって経験を積むのである。ある日、彼は成功は他人のためになるが、失敗は自分のためになることを理解する。」(ポール・トゥルニエ「生の冒険」 ヨルダン社)

 問題課題の連続の中で、かろうじて「憐れみを乞う」ことによって助けられ、救われ、気づかされてきた歩みについて語り尽した。欠けだらけの自分の内面をさらけ出すことは勇気のいることであったが、恥ずかしさや戸惑いを乗り越えて率直に語るという経験をさせてもらうことができた。

 参加者にとってどれほどの問題提起となったかは測ることができないが、語ることで見えてくることがあった。実は語り得ないことの中に真実があることだ。言葉にした時に、実態が消えてしまう大事なものがあることだ。そしてその「何か」をさらに言語化できるように追求していくことが、自分のこれからの課題であることを改めて考えさせられた。そして今、新たな気持ちで教育の仕事に携わることをもうしばらく続けていきたいと切に願わされている。

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