いつまでも残るもの
~この時代の教育を考える~

  • 2021.07.13

日常の生活を取り戻すために

 東京に4度目の緊急事態宣言が出された。オリンピックの是非を含めて社会がますます分断される中、感染症は人間の思惑を忖度することなど全く無く、人々の生活様式のあり方と行動をそのまま映し出すように再び広がりつつある。当初からずいぶん月日が経過したが感染の蔓延は収まらず、識者たちの知見も一致の方向に向かわず、国として統一した行動は見られない状況が続いている。そして犠牲になっているのは、声を上げることが出来ない社会的弱者、とりわけたった一度の思い出となるはずの行事や体験を自粛し続けている子供達ではないかと思う。

 先日、東京周辺の学校の教師たちの学習会の中で、それぞれの学校の在校生たちの「心の失調」についての報告を聞いた。改めて長く続いているコロナ禍の中で、子供達の心が痛んでいる状況が浮かびあがってきた。安心と安全の場所である家庭が痛んでいることもあり、心の安全地帯を失っている子供も多いと聞いた。心の失調は戻れる場所を失い、日常の生活が壊されていることで起こっているのだ。孤独や疎外感、そして孤立感は生徒や学生たちを飲み込んでいる。

先月の人間学読書会で読んだ相良敦子さんの「親子が輝くモンテッソーリの言葉」(河出文庫)では、乳幼児の発達の中で、いかに「自発性」を尊重してそれを支援することが大切であるかを学んだ。イヤイヤ期(第一反抗期)について書かれている箇所で、反抗期は子供の困り感のあらわれであり、その原因は第一に自分でやりたかったことを大人が勝手にやってしまったことへの怒りであり、第二は「秩序が狂ったこと」からくる子供の苦痛だ、と書かれていた。
 秩序感とは、慣れてきた順序、場所、所有物がいつも通りにあることで、それが失われるときに混乱が起こる。泣き出すこともある。秩序があることで子供は世界を認知していくと学んだ。だから絵本などの同じ話を繰り返し喜ぶのも、心の安定のために必要なことなのだろう。
 この秩序感が心を安定させるのは、乳幼児だけのことではないように思う。とりわけ、人生の岐路に立った時、安定した日常と居場所を持っていることは、選択や決断にとって大きな助けとなる。

コロナ禍は、その当たり前に思えた日常を奪おうとしている。人と人と生身の関係によって築かれてきた世界をストップさせ、人間の特性である他者と共に生きるという相互依存の関係性に、制限をかけようとしている。とりわけ成長途上の子供達にとって、日常的な学校生活の中で、クラスや部活動、行事や共同作業で成り立ってきた生活を妨げる要因となっている。大人社会は、建前と本音を使い分けることで欲求不満を解消しようとしているが、生真面目に大人の言葉に従おうとしている子供達は、欲求不満を自らの内側に溜め込んでいないだろうか。長く続く禁止事項の多い大人からの指導は、ボディブローのように子供達の心の深くにストレスを与えているように思えてならない。この夏休みもまた、自粛を求められるのであろうか。日常を奪われた子供達はどのように「反抗」することが許されるのだろうか。

体験の価値を重視する本校の教育もその真価を試されているのだろう。この春は形を変えて体育祭も音楽会も校外授業も行い、制約のある中でもクラブ活動も行ってきた。学校にとって、夏の宿泊行事をどう体験させられるか、学校のあり方、教育への姿勢が問われているように思われる。有志参加のキャンプや研修など、実施の方向で考えていると聞くが、生徒自身のために体験を通してしか得られない手応え豊かな経験が行われるように切に願っている。生徒たちの日常を守ることが、成長の原動力となるのだから。

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