いつまでも残るもの
~この時代の教育を考える~

  • 2021.06.07

反知性主義の風潮の中で

 紫陽花の青色が目立つ季節となった。温暖化の故か変化の速度は早まっているように思われるが、自然の営みは悠久の流れに沿って移り変わっている。しかし世の中の方は、もう一年以上コロナ禍への対応を巡って様々な議論が続いている。最近は一年延期されたオリンピック・パラリンピックの開催の是非を巡り連日報道がなされ、ますます社会の分断が進んでしまっているように思われる。危機の時に結束してきた国民全体の力が劣化しているように思えてならない。

 この間、科学的なエビデンスの有無という話題が何度も登場しているが、物事を客観的に見る事、問題を整理し分類して課題を明らかにし、開かれた場で解決の方向性を定めて最適解を求めていくという、知的な営みが行われてきたとは思えない。それどころか後世での検証のため記録を残すことすらしない、密室性の高い議論が公然と行われてきた。政策決定に反知性主義が露呈しているように思えてならない。咋秋の日本学術会議メンバーの任命問題以来、説明責任が果たされず対話が成立しない状況が続いている。それは政治の問題だけではなさそうだ。

反知性主義の怖さは、個々人の思い込みが正当化されやすいことだ。最近、藤原聖子氏の上梓した『宗教と過激思想』(中公新書)を読んだ。公正な社会を求めているが、それが実現していない現実に切迫感を感じ、自分の考えだけが公正さを実現する最善の方法と信じ、過激な行動に走る宗教的過激思想について記されている。正義のための戦争(聖戦)や暴力を正当化させる信念に共通しているのは、「自分は絶対に正しくそれ以外は誤っているという考え方」であり、それはどの宗教を問わず出現してくることを解き明かしていた。「無宗教を自認する日本人」は、これら過激さとは無縁だと考えやすいが、自らの立場の曖昧さは、かえって自らを傍観者に置いた当事者へのバッシングや陰謀論などの反知性主義的行動に陥りやすいことが記されていた。

人間の心とは、知情意の総体だと言われるが、知が軽んじられて情に引きずられる意思決定は、非常に危うい結果を生みやすいことは我が国の近代史の事実が証明している。70余年を経て同じ過ちを犯してしまうことを非常に危惧する。心の問題ばかりではない。コロナ禍で人と人との距離を取ることが要請され、共通体験や協働作業が制限される中で、人と人とをつなぐ「身体性」が稀薄になり、心と体がバラバラになっていくことが心配される。トータルな人間力が落ちてしまわないかを懸念している。

非常に心配するのは、子供達の心と体の発達への影響だ。国立成育医療研究センターの調査によると、回答した子どもの50%以上が新型コロナの影響で先生や大人へ悩みなどを相談しにくい状況が続いていることが分かったと報じられた。また高校生の3割程度に、うつ症状が出ていることも報告された。様々なものを断念させられ、本来ならば文字通り体で感じ受け止める「体験」が制限され、大人の世界に横行する現実を見せつけられている彼らの育ちに、歪みが生じないかを心配している。本年1月に出された中教審の答申にも、今後の学校教育のあり方について、「個別性の重視」と共に「協働の働きの構築」が謳われていたが、対等な立場での「対話」をどう紡ぎ出せるか、立場の異なる人との間で如何に話し合いによる合意を形成していくのか、いわば知性が問われる場をどのように設定していくのかが、教育の大きな課題となるように思われる。現実に絶望せずに粘り強く関係性を構築しなければならないだろう。


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