いつまでも残るもの
~この時代の教育を考える~

  • 2020.10.09

今、原点に戻って

 自然とは不思議なもので、10月の声を聞くと同時に、今年も金木犀の香りに包まれる。公園ではススキの穂が輝き、ドングリの実が落ちていて、桂の葉が遠くからでも匂ってくるようになる。自然は出番を忘れていない。今年はとりわけ非日常の生活が長く続いているだけに、私たちは自然によって日常に戻されるような気がしてくる。自然の多様性の豊かさを私たちは本当に美しいと思うが、また生物は多様性を持つゆえに、長い歴史の中で変化を遂げながら生き延びてくることができたことを知る。

人間もそれぞれの自然環境に順応して、実に多様な生き方を創造して来た。人種、民族、地域、習俗ごとに世界には多様な文化が存在し、独自の美の世界を紡ぎ出してきた。驚くほど精密な多種多様の文化を織りなしてきた。その多様性は神の創造の豊かさに通じるのだが、それを心から楽しめるのは幸いなことだと思う。
 しかし個々の人間の違い、固有性、多様さはどのように受け入れられているだろうか。私たちの国では、ある時代から学問・教育が、国家のための人材育成のために用いられた。その結果、戦争へ向かう国家の過ちに対する無批判と思考停止状態を生みだした。戦後には、この悲劇への反省と後悔を踏まえて、一人一人の固有性=人格を完成させていくことを、教育の目的として掲げたのだった。それは個人の尊厳を土台に、互いにリスペクトし合いながら、社会を形成していくという意志の現われであり、多様な考え方や見方があることを健全さの基準としたのだった。

しかし、今日果たしてこの社会は、この多様性を豊かさと感じることができているのだろうか。今世紀に入って教育基本法が改定されて以来、再び公共の福祉の重視という目標と共に、「集団を形成すること」「一致すること」等の価値が強調されるようになり、それに歩調を合わせるように、同調圧力や失敗者へのバッシング、そして排除の論理が強まってきているように思う。
今回の日本学術会議に対する政府の干渉は、学問の多様性を拒否しようとする姿勢の現われのように見受けられる。だが、多様性を失った集団は、衰退していくことを歴史は証明している。それゆえ、今、ひどくこの国の将来を憂慮している。

心騒ぐ状況の中だが、もう一度教育の原点に戻って考えて見たい。教育は一人一人をかけ替えのない存在として尊重し、個々人の持つ固有の能力が最大限に発揮できるような支援をすることなのだから、今できることは目の前にいる一人一人に対して、自ら考え、判断し、選択して行動する力を養う営みを支えていくことなのだろう。私たちの使命を再確認させられている。

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