いつまでも残るもの
~この時代の教育を考える~

  • 2020.09.03

祈りのある幸い

 この9月で玉川聖学院は創立70周年を迎えた。残念ながらコロナ禍のために、各方面の方々を招いて行う式典は規模を縮小して行うことになったが、70年の歴史を振り返る記念誌の編集に携われたことは、私にとって良い機会となった。過去と向き合い、今を思い、これからを託す節目の時となったような気がしている。

 あらためて創立者である谷口茂壽先生のことに思いを巡らすことが多かった。創立期から逝去されるまで苦労の連続の歩みをされておられた。大波小波と押し寄せる問題と向き合い続ける毎日であったように思われる。晩年の学園紛争期の職員会議録を読み返したが、政治的な嵐がこの平和の学園にも押し寄せてくる中、生徒の行く末を心配しつつ、処分を逡巡しながら、生徒と向き合っている先生の姿に惹きつけられていった。

 先生を知る全ての人たちは、「祈りの人」であると印象を語っていた。生徒に対してもすぐに「祈りましょう」とその場で祈りだす。その姿勢を古い卒業生たちは鮮やかに覚えていた。祈りは自分の限界を知っている者が、それでも人間を超える存在に心を向けて、そこに望みや願いを託そうとする行為と映ったのだろうか、谷口先生の祈りの言葉が、大きな意味を持っていたことを記憶していた。キリスト者でなかった多くの生徒たちに、先生の祈りが印象深く残っているのは、そこに谷口先生の人間としての姿を見たからであろう。祈りの言葉は心の思いの表出であり、そこには立派な学院長としてではなく、一人の人間としての生きる姿勢を垣間見ることができたのだろう。

 玉川聖学院は、この祈りの幸いを知っている者たちの集まりであるように思われる。創立当初から、今までずっと保護者や多くの卒業生たちに祈られてきた学校だ。キリスト者で有る無しに関わらず、祈りを自分の言葉にすることで、その思いは明確になり、その言葉は人に伝わっていく。伝えられることで、共感の心は広がっていく。問題が大きければ大きいほど、祈りの輪は広がっていった。それは現状を乗り越える力を生み出し、その時代を担った人たちは、その力に支えられて建学の精神を守り通してきた。その「祈りの輪」が次々と後の時代に繋がってきたのが、学院の歴史であったことを確認した。

 新型コロナウイルスが世界中に広がる中、世界中に戸惑いや恐れが満ちている。暗黒と絶望に見える現状の中で、多くの人の祈る姿が映像に映し出されている。分断と断絶の世界の中で、この暗闇の向こう側にある光を、祈りの中に見いだすことができるようにと心から願う。人間の限界に直面している世界が、「祈る言葉」によって繋がりを回復することを心から願いたい。

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