いつまでも残るもの
~この時代の教育を考える~

  • 2019.06.17

人は人との関わりの中で生きている

毎日報道される事故や事件は私たちの心を騒がせ、あるいは胸を締め付けられるような思いを経験させる。しかし情報量のあまりの多さは一つ一つの出来事をすぐに風化させていく。事件が解決してから10日も経つとそれは「過去の出来事」になり、衝撃的な事件も記憶の中に押し込められて、生身の感覚が奪われていく。だが傍観者である私たちにとって過去のものとなる一つ一つの出来事は、それと関わった人たちにとっては、絶対に消えない記憶、あるいは傷となっていく。類似の出来事が起こるたびに、自分の身に起こった過去の出来事をリアルなものとして思い起こして追体験し、何重にも深く傷ついていく。報道は人々の痛みをどれだけ考慮した伝え方をしているのだろうか。ニュースに賞味期限があるうちに高く売ってしまおうと煽るような報道に接して、憤りと悲しみを感じてしまうことも多くなったような気がする。被害者家族の人権は守られているのだろうか。
事件がすぐに忘れられていく中で、先月末に川崎・登戸駅付近で起きた、登校途中の小学生の列に男が乱入して包丁を振り回し、多くの児童を傷つけ二人の尊い命が失われた事件は、直接無関係である私にとっても、日を追うごとむしろリアルな重さを実感させられている事件だ。被害を受けた学校の先生方との面識があることも影響しているかもしれないが、理由もなしに無関係なしかも児童に刃を向けた犯人のことが、本当に重たく心に留まっているからだと思う。一体、彼の心の暗闇の中に、何があったのだろう。
「人は人と出会うことで人間になっていく」とは、幾度も人間学講座の中で語ってきた言葉だ。他の動物と異なる人間の特徴は、「関係性の中で育まれていく」ことだ。しかも、一人前になるために20年もの歳月をかけて、様々な出会いを通して、人は人間になっていく。そこに人間の不思議さが凝縮していることを、私たちは学んできた。愛されること、承認されること、認められること、任されること、すべて人との関係の中で人間としての成長があることを確認してきた。愛されてはじめて愛することが出来るようになっていくのが、人間の本質的な課題だ。
ところが、「社会的引きこもり」と呼ばれる状態にいると言われる数十万人のたちは、この関係性を遮断し、あるいは断絶され、人との暖かい交流体験の中から迷い出ている。原因は様々だろう。だが、事実として関係性の中から疎外されて孤立の中を、長い期間にわたって過ごしている。彼らは、人が本来では生きられない孤立の中に放って置かれている。彼らは心がフリーズした状態の中に置かれ続けている。その闇の深さ絶望感を、私たちの社会はどれほど理解しているのだろうか。孤独(solitude)を選択していることと孤立(loneliness)していることは、天と地ほど違うものだ。
群れから迷い出た羊は「自己責任」だと言って、彼が探し出されないことを常態化している社会は、群れにとどまっている羊をも疑心暗鬼にさせる。いつか迷い出たら終わりだと思う羊の群れの中では、安心感も安全性も生み出さない。恐れが支配しているからだ。この絶望感はどこから来るのだろう。あの事件後に、追い打ちをかけるように老いた父親が息子を刺殺した事件がおきた。やりきれない切なさを感じた。いつから私たちは人間の幸せの拠り所を見失ってしまったのだろう。これでは被害者、過去の被害者、そして関わる家族をさらに追い詰めているようなものではないか。
もっと、人間を信じられる社会に戻りたい、戻したい。人の悲しみを共感できる社会やコミュニティの中に留まりたい。互いの痛みは癒せなくとも、寄り添い合うことに価値を置く人たちと共に、この世界を過ごしたい。それは人と人との関係性の再構築からしか始まらないだろう。身近な関係性の中からそれを作り上げていきたい。「互いに愛し合うべきです」との聖書の勧告が真実に響いてくる。

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