いつまでも残るもの
~この時代の教育を考える~

  • 2022.11.15

心豊かにすごすために

季節は秋。紅葉は高い山の上の方から次第に里まで降りてきているようだ。目に映る景色は日々に変化しているように思われる。それにしても自然の変化の多様さ、豊かさに驚かされる。学校では無事に修学旅行などの校外学習を終えて、落ち着いた学校生活が続けられている。

今月の人間学読書会では長田弘さんの『なつかしい時間』(岩波新書)を一緒に読んだ。一つ一つのコラムが心の奥底から引き出されているような珠玉の言葉に満ちていた。引き出しの多さに、詩人の感性の豊かさと人間や自然に対する洞察力の鋭さを感じる。参加された方々と一緒に豊かな言葉の世界を味わうことができた。
何度も取り上げられていたのは「風景」に関する記述だ。「風景への感覚、自然への想いは、五感を通して実感してきた記憶の中にしっかりと埋め込まれている」と語る著者は同時に、「現代はその風景の感覚を失い、風景の中にいる自分を自覚することが欠落している」と述べる。自分の意識が自分とその周囲にのみ向けられていて、大きな自然の中にいる私という視点が失われていると語られていた。

かつて電車の中で周囲を気にせずに喋りまくる青年たちは「友達以外は全て風景」と感じているからだという指摘があったが、その「風景」とは自分と関わりのない世界を指していたのだろう。実はそういう風景の中に自分がいるという視点が失われたことが、心の育ちを損なっているのではないか。自分を風景の中においてみることは、自分の小ささ、弱さを自覚することにもつながっていく。だから、遠くを眺めること、自然の声を聴くこと、緩やかな時間感覚を取り戻すことが大事であり、著者が語る叙景の詩の言葉に耳を傾け、歴史から学ぶ「垂直のコミュニケーション」を大事にすることから、自分を相対化し、置かれた立ち位置を気づき直す作業が始まるのだろう。五感を働かせるとは、そういうことなのだと思い巡らしていた。

先日、公開中の映画「桜の風が咲く」を鑑賞した。4歳で右眼を摘出、9歳で左の視力を失い、18歳で全ての音も奪われて無音漆黒の世界に放り出されながら、母が考案した「指点字通訳」により言葉の世界を取り戻し、重複障がいを持ちながら現在東大先端研の教授になっている福島智氏の若き日のエピソード(「生井久美子『ゆびさきの宇宙』岩波書店」に詳しく叙述されている)を描いた映画だ。生身の体に襲いかかる病魔は、過酷な運命としか思えない状況を次々に生じさせたが、母の献身的な愛と本人の優れた受容力・適応力ゆえに、世界を取り戻していく物語だった。五感の多くの部分を失っても、人は残された感性を生かすことで、別次元の気づきや発見に出会えることを教えてくれる。そこには与えられた知恵を用いて、自らの意思を働かそうとする決意と覚悟を垣間見たような気がした。

長田さんの「街を歩こう」という文章に「街歩きを楽しむには、目を綺麗にし、耳を綺麗にし、心も綺麗にしなければ何にもならない。」と書かれてあった。身近にある晩秋の風景を眺めて色づいた木々の紅葉を味わうためには、だいぶ錆びついてきてしまっているが、今自分に与えられた感性をフル回転させ、今年の秋を楽しもうという思いを分かち合った読書会だった。

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