いつまでも残るもの
~この時代の教育を考える~

  • 2019.07.22

暴力の力に負けないために

今年も毎日のように、家庭内で起こる事件の報道が続いている。犯罪の半数以上が身内の関係から起きていることは以前と変わりないのだそうだが、痛ましいニュースが多すぎるように思う。親が子どもを虐待して、その命が奪われるというあり得ないことが各地で頻繁に起きている。養育拒否や心理的虐待などを含む児童相談所に報告された虐待の件数も、平成の30年間で120倍に増加している。(平成29年度は13万3778件が報告されている。つまり1時間に15件の明確な虐待事件が日本のどこかで起きているのだ。)虐待に対して報告が義務づけられ、社会的関心が広がり通報されやすくなったこともあるが、見えない虐待を含めて、現実に家庭内で起きている悲劇はかなり裾野が広がっているように思われる。

決して「母性神話」「3歳児神話」を持ち出すべきではないが、なぜかくも親子の絆が弱いものになってしまったのだろう。親子関係の崩れは、社会全体の崩壊を示す象徴的な出来事だ。人間と動物の根本的な違いは、弱さを支え合うコミュニケーションの多彩さの中に、人間社会の優越性があった。20年もかけて一人前になっていく営みは、この「関わり合う社会」が作り上げていく文化や文明という人間の独自性を発揮するためだった。弱い者が淘汰されずに守られることこそが、人間社会の豊かさだったのではないか。その人間特有の支え合う特性が、高度に文明化された現代社会で失われつつあるのではないか。いつから人間は、自分のことだけに関心が集中してしまったのだろう。文明が進むほど知恵は豊かなものになってきたのではなかったか。

先日精神科医の工藤信夫先生を招いて「思春期セミナー」が開かれた。土曜日実施のためお父さんたちの出席も多くあり、親子関係のあり方についての講演と分かち合いの時を持つことができた。親子のあり方について丁寧な説明があったが、その中で語られた現代社会の中に組み込まれている「暴力性」(支配と服従関係を強いる関係のあり方)の持つ危険について考えさせられた。子育てや教育の中にもこの「暴力性」が潜んでいないだろうか。私たちの社会は時代の空気に拘束されやすい。あの傍若無人の大統領の言動も、声高で攻撃的な言論人の主張にもいつのまにか慣れてしまい、その暴力性を無批判に受け入れてしまっていないか。もしくは相手の土俵に乗ってしまい自分の中の暴力性が引き出されていないか。

このような時代になると、強い立場にある者が弱い立場にある者の利益のためと称して介入や干渉をするパターナリズム(温情主義、父権主義)が力を持ちやすい。私たちの国が採用した「道徳の教科化」は、それに陥ることはないだろうか。教育は生徒自身の内発的な力を信じて、自ら考え、悩み、自己決定していく道筋を辛抱強くとっていかねばなるまい。安易な回答や二者択一の選択肢を与えるのではなく、対話と探求により辿り着く決着点を目指して、一歩一歩現実を確かめながら進んで行く歩みを支援する関わりに踏みとどまらなければなるまい。

学校ではこの夏も、様々な体験ができる場が設置されている。生徒一人一人が自らの体験を経験化していくために、安全を確保しつつ「場の持つ教育力」が生かされるように寄り添っていくことが、学校教育現場に期待されているのではないだろうか。そのような支援に携わっている先生たちに心からのエールを送りたい。

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