心を磨く

  • 2020.07.13

今日の聖書のことばと祈り

新約聖書 マルコの福音書 1章 40~41節
「さて、ツァラアトに冒された人がイエスのみもとにお願いに来て、ひざまずいて言った。『お心一つで、私をきよくしていただけます。』
イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。『わたしの心だ。きよくなれ。』」

 人に頼みごとをするのが苦手な人がいます。相手を煩わせること、迷惑をかけることが申しわけなくて、嫌われたくなくて、何でも自分だけでやろうとしてしまうのです。人に助けられることが嫌いな人もいます。助けを必要としていることを人に知られることが、自分が侮られることになるのではないかと恐れるのです。いつも私たちが困っている原因は、助けてくれる人がいないからではなくて、助けてもらうことを私たちが受け入れられないからなのかもしれません。
 
 当時、重い皮膚病を患った人には誰も近づこうとしませんでした。誰からも触れられることなく生活していたこの人は、イエスの前にひざまずいてお願いをします。彼は治る見込みのない病気に絶望するあまりに、最後のプライドを捨ててイエスに憐れみを求めたのでしょうか。みじめな敗北者としてイエスのもとにひれ伏したということなのでしょうか。
彼がどのような自己理解をしていたかはわかりませんが、イエスは彼をそのようには扱いませんでした。イエスは躊躇なく手を伸ばし、他の人々をいやすときと同じように、彼に触れます。「あなたがきよめようと思ってくださるなら」と下から見上げた彼に対し、「まさにそれが私の思いだ」と、はじめからそのつもりであったかのように、目の高さを合わせます。この人は、自分がひとりの人間としてまっすぐに向き合ってもらっていることに気づいたはずです。ひれ伏した自分のところまで身をかがめるイエスの真剣な眼差しは、彼に人間としての尊厳を回復させるものでした。イエスの私たち罪人に対する憐れみは、上から見下ろすものではなく、横に並んで立ってくださる深い共感なのです。

 このような方が救い主なら、私たちは卑屈になることも自虐的になることもなく、安心して助けを受け取れるのではないでしょうか。今週も、神の子イエスに助けていただきましょう。彼の心は、私たちを憐れむ共感でいっぱいなのですから。 
 
【祈り】
父なる神様。豪雨が続いた被災地に、あなたの憐れみと慰めを与えてください。速やかに雲が去って、回復のための支援と愛が彼らのもとに届きますように。私たちも、すべての必要に応えてくださるあなたの憐れみを受け取りながら、いただいた祝福を周りの人々と分かち合うことができますように。
イエスの御名前を通してお祈りいたします。アーメン。

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