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  • 2020.03.08

3/8のメッセージ「十字架への道」

先週の火曜日の朝の礼拝のメッセージです。キリストが十字架で死なれたことの意味を改めて思い起こすときとしましょう

2020年3月3日(火)朝の礼拝(土屋くによ先生)
聖書箇所;ルカの福音書23章 22章39~44節

ルカの福音書23章34節
そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。

おはようございます。今日も私たちが元気に生活できていることを、まず神様に感謝したいと思います。9年前の3.11の時も、突然の大地震とその後の大きな災害で、どうなってしまうのだろうという混乱と戸惑いを経験しましたが、今回も、また違った種類の大きな混乱、戸惑い、先の見えない不安に日本中が、世界中が覆われている感じですね。そのような中で、今日も皆さんと聖書を開き、イエス様の愛と赦し、慰めをいただける幸いを心から感謝します。

さて、教会の暦では、先週の水曜日から受難節が始まりました。レントとも呼ばれていますが、イエス様の復活をお祝いするイースターから46日前から始まる期間で、今年のイースター、復活祭は4月12日なので、その46日前が2月26日だったわけです。受難節は「キリストの苦難と十字架の死を記念する期間」で、イエス様の十字架上における贖罪の意味をかみしめ、自らの罪の悔い改め、また主のご栄光を証しするためにあるべき自らを考える大切な期間です。

今週の礼拝テーマは「イエスを否定するペテロ」、そして来週が「十字架」というテーマなので、今日は十字架に向かうイエス様の姿について見ていきたいと思います。

ところで皆さんは今、いやだな、こんなことやりたくないな、と思うことがありますか? まさに今、このあとある期末試験がいやだな、テストなんて受けたくない、と思っている人が多いかもしれません。でも、だからといってテストを受けなくて済む訳でもないし、どうせ受けるのだったら、よい点数がとれる様に、よい備えをして臨みたいですよね。私も中高時代は、テストはとてもいやでした。あと、持久走は、大嫌いでした。それとか歯医者さんにいくことも。結局テストは受けなければいけないし、歯医者さんには行かなくてはいけないし…。それで、私は何かいやだな、やりたくないな、と思うことがあるとき、よくお祈りしました。たとえば持久走があると分かっている前の日には、「明日は土砂降りの雨になりますように。」歯医者さんに行く日には「何かの都合で歯医者さんがお休みになっていますように。」テストの前には、「火事とか、洪水が起こったりとかで、学校でテストができなくなりますように」なんて祈ったこともありました。もちろんそんなお祈り、聞かれることは一度もありませんでしたが。

ルカ23章の前、22章39~44節は「ゲッセマネの祈り」という、イエス様が十字架にかかられる前にお祈りした場面です。昨日読んだペテロのお話の間に入っている箇所です。164ページ、42~44節をお読みします。

42「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」
43すると、御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけた。
44イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。

イエス様は、ご自分がすべての人の罪を背負って、いけにえとなり十字架にかかり血を流す、という使命をご存知でした。そのためにこの世に来られた神の子なのだから、そんなのわけないこと、簡単なこと、ということではなかったのです。十字架にかかって私たち人間の身代わりとなり、神様からの罰を受けることは、イエス様にとっても本当に辛く、恐ろしいこと、苦しいことだったのです。

マタイの福音書の並行箇所では、「イエスは悲しみもだえ始められた」「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」ということばがあります。42節の「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけててください」という中の、この杯、というのは十字架にかかり身代わりの死を遂げることです。「できるなら、十字架にかからなくてもいいようにしてください」というお祈りを、イエス様がしているのです。でもその後に、「しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」ということも祈られています。

先ほどのマタイの並行箇所を見ると、その後イエス様が捕らえられるときに、弟子の一人が大祭司のしもべに剣で打ちかかり、耳を切り落としました。その時、イエス様はこう言いました。

「剣をもとに納めなさい。剣を取るものはみな剣で滅びます。
それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くのみ使いを今わたしのはいかに置いていただくことができないとでも思うのですか。
だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」
「しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書が実現するためです。」

結局捕らえられて死刑になるのだったら、そんなお祈りしても意味ない、と思いますか? 結局この世の初めから、神様が立てられた救いの御計画で、聖書によって定められたことなのだから、自分の未来はどうせ変えられない、というあきらめの境地にいたったのでしょうか? ルカ22:43には「すると御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけた」とあります。お祈りによって、励まされ、力づけられて、神様のみこころに従う備えとなったのです。先ほど読んだ捕らえられる場面、そしてこの後の十字架に向かうイエス様の姿は、決して投げやりでも、あるいは弱々しく情けない姿でもなく、堂々と悪の力に立ち向かっていく、権威ある姿です。

私たちもお祈りする時、辛く苦しいこと、恐ろしいこと、その状況はたとえ変わらないように見えても、それに立ち向かっていく力と心の平安を神様は与えてくださり、ともにいて助け、乗り越えさせてくださるお方です。この不安な日々の中ですが、ぜひ神様にお祈りしてみてください。神様は必ず一人一人に必要な力を与え、助けてくださいます。

これからCDで「十字架の道」という賛美の曲を聴きたいと思います。第Ⅰペテロ2章22-24節がほとんどそのまま歌詞になっていて、私の友人の内藤容子さんが作った曲です。賛美と証しで伝道する、「音楽宣教師」として活躍されている、とても素晴らしいアーティストでもあります。

455ページ
22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
25 あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。

この聖書の箇所は、まさしく今日最初に司会者に読んでもらった「父よ彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、自分でわからないのです」の後から続く場面にあらわされています。
この聖書の箇所を目で追いながら、そしてイエス様の十字架を思いながら、聴いてください。

「十字架の道」

キリストは罪を犯したことがなく
その口に何の偽りもなく
ののしられてもののしり返さず
苦しめられてもおどすことをせず
正しくされる方に任せられた
そして自分から十字架の上で
私たちの罪をその身に負われ
それは私たちが罪を離れ 義に生きるため
キリストの打ち傷のゆえに あなたがたは癒された

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