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  • 2020.03.05

3/5「受難節のメッセージ」

今週の礼拝は、イエス・キリストが十字架に向かっていかれる場面からのメッセージでした。聖書の中でも大切なお話ですので、自宅で過ごしていた生徒もぜひ読んでください。そして、聖書のことばに押し出されて、毎日の生活の力を得てほしいと思います。

2020年3月2日(月)朝の礼拝(笠井洋子先生)
聖書箇所;ルカの福音書22章31~34節、54~62節

先週の水曜日(2/26)から、教会の暦は受難節、レントを迎えました。
レントの期間、礼拝で読まれる聖書の箇所も、イェス様の十字架の苦しみと、イェス様を敵視する人たちの策略によって捕らえられ、理不尽な扱いを受けていく場面となっていきます。
今日の聖書の箇所も、イェス様を慕っていたペテロという弟子の裏切りの場面と言われているところです。

ペテロは、もともとはガリラヤ湖で魚を取って生計を立てていた漁師でした。イエス様から最初に弟子として招かれ、イエス様のことを最初にメシア、救い主と告白した人物でした。特に優れたものを持っていたのではなく、トマスやルカのように、思慮深く物事を考える様子もうかがえませんが、純朴で素直な人物だったのでしょう、イェス様は漁師ペテロを愛され、初代教会の基礎を築く一人にまで導かれます。
もともと、シモンという名前でしたが、イエス様からペテロ、つまり、「岩」という名前を与えられ、砂の上ではなく堅い岩を土台に据えて、立つべきところをしっかり立つ人物に変えられるように、祈られていった人物でした。
 
そんなペテロがイェス様を裏切る場面です。ペテロは、イエス様に十字架刑の危機が迫っていた時、「イェス様と御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言いました。ところが、イエス様は、「あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度私を知らないと言うだろう」と裏切りの予告をされます。そして、そのとおりになります。

一度目の裏切りは、大祭司の庭で、焚き火に照らし出されたペテロの顔をじっと見つめていた女中が「この人もあのイェスという男と一緒にいました」と言ったとき、ペテロはとっさに、身の危険を感じ、「私はイェスなんて知らない」と答えてしまいます。
二度目は、このあと、しばらくして他の男がやってきて「あなたも、あのイェスたちの仲間ですよね」と言ったとき「いいや、私は違う」と答えます。
三度目は別の男が来て「この人は確かにイェスたちといっしょだった。同じガリラヤ人だろ」といわれたとき「あなたが何を言ってるかわからない」と言います。この三度目の否定をした時と同時に、つまり、ペテロの言葉も言い終わらないうちに、予告通りに鶏が鳴きました。
そして、そのとき「主は振り向いてペテロを見つめられた」と書かれています。ということはつまり、ペテロは、イェス様に自分の声が届くところにいて、イェスなんて知らないと言ったのです。

かつて、ガリラヤ湖畔で「私に従ってきなさい」と声を掛けられ、網を捨ててイェス様に従い、一緒に旅を続け、教えを聞き、イェス様が弱い人を助け、病人を癒し、死人をよみがえらせる奇跡も見て、何年もそばにいたペテロが、自分の命惜しさに、怖くなって、イエス様のいる場所であっという間に裏切ってしまいました。
けれど、おそらく、こうした場面に遭遇したら、多くの人がこのペテロのようになるでしょう。「そうです」などと答えれば、その場で捕まえられるのは目に見えているからです。

ペテロの三度の否認を辿ってみましょう。一度目は「わたしはあの人を知らない」二度目は「わたしではない」。三度目は「あなたが言っていることが分からない」です。
イエスを知らないと言い、自分を存在していなかったと言う。そして、最後に、何も分からないと言う。ペテロは否認の度に、一つずつ捨てているのです。
一度目はイエスを捨て、二度目は自分を捨て、三度目は相手を捨て、ペトロはすべてのつながりを捨てていきます。イエス様と共に生きた自分、イエスと共に生きた兄弟たち、自分と関わる人。すべてを否認してしまったペテロは、何を拠り所にして、どこに身を置き、どこに立って生きていくというのでしょうか。ペテロは絶望の中で泣き叫びますが、彼がこうなってしまうことをイェス様はあらかじめご存じでした。ルカの福音書では、こうしたペテロの裏切りに対して、とても優しいイエスの姿が記されています。
自分を裏切って、絶望の中に落ちていったペテロがいつでも帰ってこられるようにしてあげているのです。
ペテロの裏切りを予告した22章32節で「わたしはあなたのために、信仰が無くならないよう祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」という御言葉に表されています。
イエス様はすでに、ペテロが自分を裏切り、絶望に至ったときに、彼がいつでもイエス様のところへ立ち戻れるようにして、立ち直って歩み出すときには、兄弟たちを力づけてあげるべく伝道者となるよう祈られていたのです。
不信仰の告白もまた主の計画のうちにあることに驚きます。
救い主は信仰の世界だけでなく、不信仰の世界にまで手を差し伸べて、まさに罪人を救うために来られたことを知らされます。

イェス様は自分を裏切ったペテロを「振り返って見た」とあります。ペテロに向けられたときのその眼差しには、彼を責める思いではなく、ペテロの弱さに対する憐れみがあふれていたことでしょう。

私たちは、聖書の中に自分を見つけることがあります。あるときは、群れから離れて迷子になり、イェス様に見つけられた仔羊だったり、ある時は父親から自分の受け取る分の財産を全部もらって家を出て、好き勝手な生活をしたあげくに、無一文になって家に帰っていった放蕩息子だったり、ある時は、イェス様を高いところから見ようとしていたら、降りておいでと声をかけられたザアカイだったりします。ペテロに自分を見たと思う人もいるでしょう。ペテロは、この場面で、人間の弱さを代表しているからです。

そして、この弱いペテロ自身も、キリストを裏切って自分自身をも見失い、生きる場所を失ったとき、これまでイェス様と共に歩んできて、イェス様がたとえ話に話されたあの迷子の仔羊も、放蕩息子も、自分自身のことであり、旅の途中で出会ってきた罪びとや、病人や、弱っている人々にかけられた優しい言葉もすべて、自分に向けて語られた言葉であったことに気づかされたことでしょう。

ブルームハルトという神学者は、「救い主は、びくともしないような強い信仰の持ち主を必要とされない。彼が必要とするのは神に不従順になりはしないかと恐れおののくが、また立ち直って、喜んでハイといい、行動する人。そのような人が教会を作る」と言っています。

ペテロもイェス様の祈りのとおりに、やがて、復活の主に出会って心を入れ替え、初代教会の、まさに「岩」となるべく土台を築き、力強くキリストを述べ伝えていくものへと変えられていきます。
私たちは、いつでもイェス様なんて知らないと言えるし、いつでも神から離れて生きるものです。けれどイェス様は決して見捨てず、いつでも祈ってくださいます。キリストこそが私達のために祈っていてくださるのです。絶望しても、神から離れても、再び立ち直って歩み出していけるように祈ってくださるのです。
今朝もまたイエス様はペテロに祈られたようにあなたのために祈り、優しいまなざしで見ていていくださいます。イェス様とともに今日一日を歩んでゆきましょう。

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