いつまでも残るもの
~この時代の教育を考える~

  • 2018.08.17

戦争の記憶を語り継ぐ

今年の夏は30度を越す暑い日が長く続いている。思考が停止してしまうような重たい空気の中、久しぶりに読書三昧の日々を送っている。特にこの時期はメディアでも触れることが多いが、戦争の記憶と記録に関する書物に触れることも多い。ここ数年、戦争を過去のこととして、未来志向で生きることが繰り返し語られているが、きちんとした歴史の検証なしに未来を語るのは、「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。」(「新版・荒れ野の40年」岩波ブックレット)とヴァイツゼッカーが言ったように、後世の時代に都合の良い解釈を許すことになってしまう。

こんな危機感からだろうか、戦争を「一般人」「命令を受けた者」の視点から問い直そうと言う書物が最近発刊され、読まれているようだ。特攻隊の生き残りの人たちの証言、東南アジアでの戦争に参加した人たちの記録、最後の1年半で9割の戦死者が出たという現実、戦死の多くが「戦病死」や「餓死」であったという事実、これらは歴史を国民の視点からもう一度見直そうという営みと言えるだろう。吉田裕「日本軍兵士」中公新書、鴻上尚史「不死身の特攻兵」講談社現代新書、藤原彰「餓死した英霊たち」ちくま学芸文庫などを読んだが、いずれも戦争の全体像が浮かび上がってくるような気がした。

戦争は、理不尽な状態や異常を、異常とは思えなくする魔力を持っている。冷静に考えれば無謀な判断が、精神の高揚とともに賞賛される出来事になり、強行されていく。一旦走り出したら止められない。だから戦争を未然に防ぐためには知恵が必要なのだろう。法律で政治を縛ることにより、300万を超える人たちの犠牲を無駄にしないように作られたのが「日本国憲法」ではなかったのか。個人の尊厳を最も大事とし、固有の人格の完成を目標と定めたのが、教育基本法の理念だったのではないか。

市民が経験した戦争を描き出した著書に共通している点があった。それは決してこの異常な集団主義は過去の問題、戦争時の「異常な状況」が生み出したものではないということだ。70年後の今も、同調圧力は様々な組織の中に強く残っている。最終的な責任を曖昧にしたまま、誤った判断が修正されずに続けられる。組織が個人に優先するものの考え方が、自明のこととして語られ、「人々の常識」により差別され、排除され、攻撃される世の中は変わっていない。いや、情報社会の到来とともに、その弊害はますます顕在化しているように思われる。「公共の利益」とは一体何なのだろう。ヘイトスピーチのような主張を許す「公」というのは何者なのだろう。自らを裁判官の座において、失敗したもの、弱いものを徹底的に攻撃するメディアに正義はあるのだろうか。それは、フェイクニュース紛いの戦果を大々的に報じて国民を煽った戦争中も今も、構造は変わっていないのではないか。

戦前の空気を作り出すのに大きな貢献をしたのはやはり教育であったのだろう。検証することを許されなかった徳目としての「道徳」は、子供達の心に刷り込まれていった。かつて知覧で見た特攻隊に志願したと言われている若者たちの遺影は、今も何かを語りかけている。大人の価値観と言動を信じて、純粋であるがゆえに本来人間として持っていた自らの感情に封印をしたまま命を落としていった人たちは、戦争の真実を知り、大人たちの無責任な行動を知ったらどのようにも感じただろうか。墨塗り教科書を経験した世代が現役を引退していく時代にあって、次世代に語りつぐものを大事にしたい。大切なものは「手渡していく」ものであるとしたら、市民の言葉で語りつぐ戦争の記憶が、もっともっと脚光をあげてもいのではないかと思わされた。教育の責任もますます重くなるように思われる。

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