いつまでも残るもの
~この時代の教育を考える~

  • 2024.02.15

「自分で幸福を見つけるには」

批評家の若松英輔氏が小友聡氏との対談の中でこう述べている。
「現代の私たちは、幸福とは何かを考える前に幸福を求めてしまう。そのような悪循環の中にいる気がします。私たちは、誰かが作った、本当にそれが幸福かどうかわからないものを幸福として押し付けられている、とも言える。幸福は人それぞれであるはずなのに、型にはまった幸福を生きるのが良いとされている空気を感じます。」
(別冊・NHKこころの時代「すべてには時がある」NHK出版)
人が生きている実感を味わえるのは、それぞれの人生の中で起こり来る様々な出会いや出来事を通して心に感じる喜怒哀楽の思いを、主体的に自分のものとして受け止め、引き受け、ある場合それを乗り越えることで、そこに意味や価値を見出していくことの中にあるように思う。過去を振り返ったときに、自分を形作ってきたものは、痛みや悲しみをも含んだ個人的な体験の中から作られてきたと思う。だから幸福とは人それぞれの価値観によるものなのだと思うし、決して誰かとの比較の中で測れるものではないのだろう。

幸福だけではなく人間の生き方や価値観は、特定のモデルに当てはめて考えるものではないのだろう。どこかに答えがあるのではなく、生きていく手応えの中で自分のものにしていくものだろう。しかし、先行きが予測できず不透明な時代だからかも知れぬが、人々は自分の外側にモデルや基準を置き、それを獲得するために社会が作り出した既存の価値観やマニュアルに従って、それを実現させようとしているように思えてならない。成功すること、競争に勝つこと、獲得すること、評価を得ることのための手引きが世に溢れている。
多様性が尊重されていると言われながら、現実では周囲の目を気にして集団から外されないように心を配り、他者と比べて自分を測定する尺度しか持てない人が多くいる。幸せとは何か、希望とは何か、愛とは何か、これらは獲得するものではなく、人生の経験を通して気づくものであり、それは自ら発見してゆくものなのではないかと思う。しかし、ここに「正解主義」の呪縛が色濃く反映されているように思えてならない。

先日、世界的な指揮者であった小澤征爾氏が逝去した。追悼の思いを込めて、恩師の名を冠したサイトウ・キネン・オーケストラが演奏する何枚かのCDを聴いていた。若いうちにヨーロッパに渡り自力で音楽の道を切り開いていった生涯は、最後まで圧倒的な存在感を持っていた。その足跡は後に続く音楽家たちの大きな道標となっていった。
谷川俊太郎、大江健三郎、武満徹、浅利慶太、石原慎太郎たち同世代の芸術家たちに共通していたのは、主義主張は異なっていても、自ら時代を切り開いていく主体的な生き方であったように思う。それぞれに既存のアカデミックな世界からは批判も受けたが、それを打ち破っていくエネルギーに満ちていた。時代がそのような時代であったのか、何かを求める力や反発心が強かったのか、戦後世代と言われる人たち特有の情熱を感じる。少なくとも彼らは、人と比較して自分を位置付ける尺度で自分を測ろうとはしなかったように思う。

自分を生きるとはどういうことなのだろう。現在、我が国の青少年の自尊感情は圧倒的に低いと言われ続けているが、自己肯定感の回復のために私たちの社会は何をしてきたのだろう。お仕着せの価値観を提供するのではなく、体験を通して自分を知っていくプロセスを得られる場を提供することが喫緊の課題なのではないか。独りよがりではない豊かな自我形成を支援するためにこそ、教育という営みがあるのではないかと思わされている。

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