いつまでも残るもの
~この時代の教育を考える~

  • 2018.10.09

眼差しの先にあるもの

最近昼間に電車に乗る機会が増えたが、車内で気になることがある。もうすっかり当たり前の風景なのかもしれないが、座席に座っている人のほとんどが、スマートフォンの小さな画面を一心不乱に見ていることだ。以前から夜遅くの車内では見慣れた光景だったが、昼間の様々な年齢層が乗っている車内で、周囲を見ることが禁じられているかの如くに画面を覗いている。違和感を覚えるのは、今までの生活との違いからなのだろうか。人々はまるで空白の時間を埋めるかのように様々な情報の入手やゲームに時間と手間をかけている。現代人はそれほど忙しくなってしまったのだろうか。絶えず刺激を求めているのか、暇を持て余すことに慣れていないのか、それとも周囲の気配を感じることを煩わしく感じるからだろうか、皆が小さな画面釘付けになっている。
人と人が共に生活する空間では、眼差しは大きな意味を持っていた。「目は口ほどに物を言う」という言葉があるが、眼差しは多くの意味を持っていた。不特定多数が閉じられた空間の中で場を共有する車内では、自分の感情を見せないことがルールとなっているからだろう。無機質な車内にふさわしい光景が展開されているに違いない。だが、人と人との断絶の象徴のような場面にも思えてならない。
先週から始まった汐留のパナソニックミュージアムの「ルオー展」を見てきた。充実した展示内容だったが、ひときわ惹きつけられたのはルオーの代表作である「聖顔」とともに、パリのポンピドーセンターからやってきた、十字架に向かうキリストの顔を拭いたという伝説上の女性「ヴェロニカ」を描いた作品に魅了された。黒く塗りつぶされた瞳、長い鼻、小さい口という特徴は、キリストを描いた「聖顔」とそっくりだが、その眼差しの向かう方向は、キリストを見つめその運命と神の計画に思いを巡らす宗教的な深遠さを伝えてくれる。久しぶりに一枚の絵と対面する機会を得たような思いがした。眼差しはキリストを見つめているのだが、同時に「あなたは何を感じていますか」と問いかけてくるような気がした。これが芸術作品の持つ圧倒的な魅力なのだろう。

教育の原点は、相手の状態を見通す洞察力を持つことだが、現代社会で生活していると人格から離れて、目に見える成果や業績、データや結果から人を判断する風潮に飲み込まれてしまいそうになる。喜怒哀楽をはっきり出してくれる思春期の子供たちと接することは、それゆえ幸いなことなのだろう。教師たちは生徒によって教師にさせられるとはそういうことを言うことなのかもしれない。電車の車中で、そんなことを考えていた帰り道だった。

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