今年も卒業の季節が訪れた。卒業式の中心はやはり卒業証書授与の光景だろう。一人一人の生徒が壇上に上がり、担任の教師に名前を呼ばれ、学院長から卒業証書を受け取っていく。その誇らしげな表情を見ていると、それぞれの物語があったことに思いを巡らす。今年の高校3年生は、中高の時代にコロナ禍を経験しつつも制限された活動を乗り越えて、思い出に残る行事や活動をやり遂げてきただけに、送り出した家族の思いを含めて思い出の多い学校生活を送ってきたのではないか。改めて学校が提供できるものについて考えさせられる。
現在上映されているドキュメンタリー映画「小学校〜それは小さな社会」を観てきた。コロナ禍の2021年に東京世田谷の小学校での子どもたちの実際の学校生活を、1年間撮り続けてきた記録だ。1年生と6年生の生活に焦点を絞り1年を通してどのように成長していくか、密着して追い続けている。集団生活を営む中で周囲との環境調整が図られていく姿が、自然な映像と共に描かれている。「特別活動(TOKKATSU)」と呼ばれる日本式教育に海外から驚きの目が向けられ注目を集めているようだ。子どもたちの表情が生き生きとしていて、100分の時間が瞬く間に過ぎていった。
人は人との関係性の中で人間になっていく。誰と出会い、どういう世界に惹かれ、何に興味関心を持ち、どんな自分になりたいと思うか、人それぞれが自分の物語を紡いでいく。しかし与えられた環境も大事だ。周囲の影響を受け、関係性の中で自分を作っていくからだ。学校は子どもたちが成長していく過程で通過していく社会であり、同時に、後に生きる世界のための準備をする場所でもある。そうであるなら、人生の軸となる考え方やあり方を体得する場所であるべきなのだろう。生きる力となる知識を身につけることも大事だが、この映画で描かれていたような人と共に生きるためのスキルを身につけていく生活体験も非常に大事なのではないか。
コロナ禍はさらにそれを促進させたが、人々が分断され、人と人との関わり方が変質しているように思えてならない。学校や地域社会を「自分の居場所」とするために関わりを深めるのではなく、束縛されない個人の生活を好む空気が社会全体に満ちている。面倒なことはしたくない。匿名で社会と関わり、時々匿名で意見を表明する。その傾向を社会も支持しているのだろうか。対話することで同意を得ていくことより、一方的な意見表明が氾濫している。
映画で描かれていた小学校のクラスは、現代社会が忘れかけている、人としての成長の姿を映し出していたように思う。同時に学校の中にカメラが入り長期間にわたって撮影し続けた映像がこうして公開できたことに驚く。当該の児童・保護者・教師たちがそれを許可しオープンに日常生活を提供したのは、制作者の誠意ある思いを受け入れた学校関係者が、ここで起きている真実を広く伝えたいと願ったからだろう。プライバシー保護が優先される昨今の教育現場で、それが認められたのは奇跡に近い。背後に学校と保護者間に日常的な信頼感があったことが想像される。それも稀有なことであるのかもしれない。
一人一人にフォーカスして成長の軌跡を見ていくことが学校の役割だろう。客観的な数値や平均値では測れない個々人の物語に寄り添い、一人ひとりの心が育っていくことを支援する。学校生活を通してそれを身につけていく生徒たちに、いかに良質の体験の場を提供できるかが学校の課題なのだろう。今年卒業していく一人一人が、ここで得たものを心に刻みつつ、それぞれの新しいステージに旅立っていくことを心から願っている。