今年も終わりが近づき、一年を振り返る季節となった。ウクライナ、パレスティナ、ミャンマーなど戦争や対立が未だに続き、国連は超大国の自国優先の主張により機能停止状態に追い込まれている。わが国でも、能登半島地震から始まったこの一年、社会の分断と人々の心の断絶が顕著に現われていたように思う。危機の時には助け合うという人間本来の相互依存の特性は失われ、物事が自分にとって損か得か、敵か味方かの二者択一で、白黒の決着を早くつけようとする。全体を俯瞰して見通す洞察力が本当に失われている。
藤木正三牧師が「灰色の断想」という著書の冒頭に、こう記している。
「誠実、無欲、色で言えば真っ白な人、不実、貪欲、色で言えば真っ黒な人、そんな人は
いずれも現実にはいません。いるのは、そのどちらでもない灰色の人でありましょう。
・・・とにかく人間は灰色において一色であります。その色分けは一人の人間において
も一定ではなく、白と黒との間を揺れ動いているのであり、白と言い、黒と言っても揺
れ動いている者同士の分別にすぎません。・・・灰色は、明るくはありませんが、暖か
い色です。人生の色というべきでありましょう。」 (「灰色の断想」ヨルダン社)
灰色を暖かいと感じる感性は、人間を知り生活に根差したものの考え方を知った人の感覚なのだろう。白黒を断定する何ものも我々は持っていない。
染色家志村ふくみさんの100歳記念回顧展が、今東京で開かれている(大蔵集古館)。自然の中にある無数の色を抽出して糸を染め上げた紬織りの見事な作品に圧倒される。70年にわたり一人の芸術家が紡ぎだした世界を堪能した。志村ふくみさんは著書の中でこう述べている。
「日本独特の美意識ならば、ここでぜひ鼠と茶について語らずにはいられません。四十八茶
百鼠と言われるほど、われわれ日本人は百に近い鼠を見分ける大変な眼力を持っています。
それはむしろ、聞き分ける、嗅ぎ分けるに通ずる、殆ど五感全体のひらめきによるものと
思います。
楊梅、橡、五倍子、榛、栃、梅、桜、蓬、現の証拠、薔薇、野草、およそ山野にある植
物すべてから鼠色は染め出せるのです。しかも一つとして同じ鼠はないのです。百種の植
物があれば、百色の鼠色がでるわけですし、採集場所や時期の違い、媒染の変化などで、
百の百倍ほどの色が出るのではないでしょうか。それほど複雑微妙な鼠色はいくら染めても、あきのこない尽きせぬ情趣をもっていて、それが「和」「静寂」「謙譲」など日本人の好む性情にぴったりなのでしょう。」 (「一色一生」 講談社文芸文庫)
色の多様性を感知することが芸術家の創造力を引き出していくように、一人一人の多様性と独自性が尊重されることが、豊かな社会を作り出していくために必要なのだろう。それぞれが異なった色彩を発していることを認め合い、生かし合い、助け合っていくときに、はじめて人間が作り出す文化や文明は彩り豊かなものになっていくのだろう。殺伐として言葉が飛び交う社会だが、諦めずに他者と共存する世界を目指したいと心から願っている。