敬愛する平塚敬一先生が逝去されたことを、ご家族からの連絡で知った。現役を退かれた2012年以降、「聖書の言葉」と「都筑の住人の一口エッセイ」というコラムを、メールと共に毎月1日に、旧知の方々に必ず送り続けてくださった。ご家族からの訃報を告げるメールには、すでに用意されていた10月のコラムが添付されていた。動揺する心で開いてみると、まるで「天国からのメッセージ」であるような気がした。
平塚先生は著書の中で、こう述べている。
「私はキリスト教学校が好きだとしか言いようがない。好きだというのはキリスト教学校に対して大きな期待を持っているからだ。キリスト教学校の持っている可能性は大きいのだが、それがまだ十分に発揮されていないもどかしさを感じている。そして、キリスト教学校が日本の社会で役割を果たすのは、これからだと思っている。」
(平塚敬一『凜として生きる』教文館)
期待を持つだけでなく先生はキリスト教学校教育同盟の働きの中で、大きな責任を担われた。一緒に働かせていただき大きな刺激を受け、私自身の生き方の目標となり、またメンターとなって頂いた。近年、骨髄性白血病を病んでいたこともあり、心のどこかではこの日が来ることは理解していたものの、突然の訃報に驚いている。大きな穴が空いたような寂しさを感じる。
平塚先生は第一に、徹底的に現場の教師だった。関東学院や立教女学院の校長をされていた時も現場感覚を優先し、自ら教師であり続けられた。歴史学を修めた事もあり、現実の政治や社会現象を見る時、歴史的経験をいつも根底に据えて、市井の人々の想いに寄り添いながら発言されることが多かった。それを発信することは「伝える者」としての責任であることを自覚しておられた。何者も怖れず、謙虚に発信される芯の通った言葉と文章に、励まされ教えられた。
第二に、基本的に人間を信頼する心を持っておられた。生徒や卒業生との交流も盛んで、また共に働く者たちを大事にされた。引退後も様々なところで「平塚先生を囲む会」が頻繁に開かれ、先生を中心とした人的交流が続けられた。人間を大事にし、差別や偏見を嫌い、明日の可能性に望みをおいて人と接する生き方が、そういう交流を可能にしたのだろう。私もそのサークルの中で、大いに励まされた年月を過ごすことができた。愛妻家だった先生にとって奥様を先に天国に送られたことは、究極の悲しみであったことは想像に難くないが、その悲しみも仲間と共有する心を持っておられた。優しい先生だ。
第三に、そして最も学ばされたことでもあるが、平塚先生がキリスト教教育に関する熱い心を持っておられたことだ。それはここにこそ「人間教育の根本がある」と信じる故であったからだ。人間を大事にする人格教育、人権と平和を求める教育はキリスト教教育の中にこそあるとの確信が、大胆で説得力の富んだ言葉を紡ぎ出させていた。
送られてきた先生の最後の通信の中で、パレスティナの現状に思いを寄せ、絶対者なる神の存在を根底に置きつつも、私たち自身が自らを相対化し、他の宗教や文化、思想や学問に心を開いて、そこから聞く姿勢を持つことを強調されていた。キリスト教教育が目指すのは、限りない探究心を持って学び続ける事、そして自らへの洞察を深める事だと語られているように思った。生涯をかけてそれを実践されてきた先生の最期のメッセージを、改めて噛みしめている。