毎年のように記録な暑さが続いているが、この夏も酷暑の日々が続いた。かつては冷夏と呼ばれた年もあり、30度を超える日は数えるほどしかなかったように記憶しているが、今は30度を下回る日はほとんどない。熱中症対策として一晩中冷房をつけっぱなしにすることが勧められるが、吐き出された熱量は余計に街の温度を上げている。地球温暖化は黙って受け入れる自然現象なのだろうか。究極的な人間の知恵が試されているように感じる。
9月の読書会では保護者と共にアン・モロウ・リンドバーグ『海からの贈り物』(新潮文庫)を読んだ。10数年前、読書会を始めた頃に取り上げた本を再読した。70年前に書かれた文章だが、色褪せない真実が記されていて、読むたびに新しい発見がある。
「我々が一人でいる時というのは、我々の一生のうちで極めて重要な役割を果たすものなのである。或る種の力は我々が一人でいる時だけにしか湧いてこないもので、芸術家は創造するために、文筆家は考えを練るために、音楽家は作曲するために、そして聖者は祈るために一人にならなければならない。・・・自分というものの本質を再び見出すために一人になる必要があるので、その時に見出したものが、・・・なくてはならないものの中心になるのである。」
この20年、私たちの社会はこの一人になる時間と空間をさらに無くしてしまったように思う。その隙間は情報で埋め尽くされ、人と人との間の隙間がない分、些細なことでぶつかり合い、対立し、分断が進み、ギスギスした社会になっている。そして一人になる孤独(ソリチュード)ではなく、ひとりぼっちの孤立(ロンリネス)状態が進んでいる。
リンドバーグが指摘しているように、本来、便利になり快適な生活になり、生きるために必死だった時代と比べて生活にゆとりや隙間が生まれた分、かえって私たちは身動きが取れなくなっている。そして心の隙間に入り込む光や風を感じることができなくなっている。
子どもたちはどうだろう。思春期には無駄と思える非生産的な時間が必要だ。そこで悩んだり、考えたり、気持ちを切り替えたりする隙間が人を作っていく。しかしそれを無駄とし効率的な時間の使い方が強要され生活が管理されている。子どもを含め現代人の生活は提供される夥しい情報を得ねばならぬという観念に追われ、ミシェル・フーコーが『監獄の誕生』で語るような「常に監視されていることを強く意識するために、規律化され従順な心身を形成する」方向に進んでいるのではないだろうか。
子どもたちも生活の中にある無駄と思える時間を嫌い、短時間で情報を掴むタイムパフォーマンス(タイパ)を強く求める行動が見られる。じっくり待つことが不得意で、すぐに答えの出ないような問題には関心を寄せない。結果として、自分自身を生きるという創造的な生き方から離れていっているように思えてならない。
リンドバーグがいうように、1日のうちにほんの少しでも立ち止まって、「自分を知る静かな時間(魂の静寂)を確保すること」を心がけたい。そして身の回りに溢れかえっている余計な煩雑物を捨てて、まず隙間を作ることから始めることで、創造的な生き方を取り戻していくことができれば幸いだ。