この夏は格別に暑さを実感する日々が続いた。エアコンなしには日を過ごせない毎日だった。東京のエアコンから排出される熱量は全体で5〜7度ほど気温を上げていると言われるが、一斉にエアコンを停止すると、エアコンで下げている気温が自然に下がるのかもしれないと、寝苦しい夜に考えていた。1970年代には自家用車の大半は窓を開けて走っていたことを思い出す。便利さや快適さを幸せと考えてきた人間の営みは、大きな何かを変えていくのかもしれない。異常気象という言葉に慣れてしまった昨今の地球規模の変化が、警鐘を鳴らしていることに敏感でありたいと思った。
この夏、新任の教師のための宿泊研修会に何度か出かけた。今年も合わせて150名ほどの新任の先生のための合宿研修を持った。毎年同じように繰り返してきた夏の行事だが、現役を退いて立場が変わった今年は、今まで以上に「伝えること」「手渡すこと」について考えさせられる経験となった。今年で「平成」時代が終わるが、新任の教師たちは文字通り次の世代の教育を担う人たちだ。あまり元号を用いることは好まないが、私たちは昭和に教員としての教育を受け、実践をし、平成時代の教育を担ってきた。節目の年であるからか、次の世代の教育の業を「伝える」ための研修であることを今年は強く意識させられた。さらに言えば、彼らがこれから向き合う子供達の中には、22世紀まで生きていく世代(現在の小学6年生は90代まで生きると22世紀が到来する)であることを思うと、大事なものを手渡していく責任を感じた。
そう考えると教育の自由を守ることの大切さ、平和が続くことへの責任、国境を越えた共生社会の実現がいかに大事であるかを思い知らされる。この夏も戦争の記憶と過去の歴史について考えさせられたが、人類が22世紀を迎えられるためには、永続的な平和が死守されること、全ての人間の尊厳が尊重されねばならぬことを、次の世代に手渡すことが教育の責任の大きな部分を占めていることを改めて実感した。そしてそのためには、伝える側の教師自身が、他者への関心を切らさないこと、人をモノ扱いする操作的な人間観ではなく、関係性と尊厳を重視する人間観に立って、子供たちと向き合うこと、他者の痛みがわかる感性を持ち続ける必要性を自覚することが大事であることを、今年の研修ではとりわけ心を込めて精一杯伝えてきた。
自分自身の教員としての生活を振り返る時、自分のしてきたことはやはり、手渡されたものを伝えることだったように思う。大事な価値だと思えるものは、出会ってきた人を通して伝えられた過去からの遺産であり、人類が痛みや悲しみを伴う大きな犠牲を払いながら獲得してきた知恵であり、長い思索の積み重ねの中で気づいてきた思想であったように思う。その凝縮された知識をどう伝えていくかが教育の業であり、私たちの責任であるように思った。新しい知識、技術、考えを導入することも大事だろう。時代に遅れないように、今までとは根本的に違う時代に対応するスキルを身につけることも疎かにはできないだろう。だが教育の根本にあるのは、人間が人間になっていく過程で起こる様々な問題に対応する「人間力」の育成であり、平和に共存する知恵の伝授なのではないだろうか。教育現場に立つ人間が肝に銘じておいて欲しいことについて「語る」機会が与えられた。こういう思いを伝えるとともに研修に来られた先生たちと交流することができたのが嬉しかった。次の時代を彼らに託したいと心から願った夏だった。