人は他者とわかり合いたいと願う。皆自分とは違うと知りつつも、自分を知ってもらい、相手を知りたいと思う。人間は相互に助け合う存在であることは、人が生存を確保してきた前提であったから、深い記憶に刻み込まれた他者を求める心は消えることはない。
だが一方で私たちの社会が経験しているのは、人と人の分断と孤独だ。言葉が通じないことを感じさせる断絶が現実社会に横たわっている。人々はバラバラになり拠り所を失ってしまっているように思えてならない。
旧約聖書の創世記にあるバベルの塔の建設とその中断の物語と今日の社会状況が重なってくる。シンアルの平地に住んでいた人々は、共通言語、同じ言葉で生活をし、新しい文化を創造し、豊かな文明生活を享受していた。
しかし、自らに与えられたモノを創り出す力(創造力)を、「自分たちのため」だけに用いようとした時、既得権を守るため、「名をあげ」自己存在をアピールするために、高い塔を建てようとしたのだ。しかしその結果として人々の「言葉」が混乱し、共通の言葉を失った彼らは、もはや「名をあげる」という共通の目的を共にすることができずに塔の建設を放棄し、全地に散らされていったことを聖書は語っている。人間の傲慢に対する神の裁きがくだされ、人々のまとまりは失われたのだった。
猛暑が続いているが、長い間この夏の時期は、立ち止まって過去の歴史を振り返り、平和の意味を噛み締める季節であったような気がする。メディアの多くも、過去の記憶を呼び覚ます映像や記事を社会に提供していた。しかしこの夏、戦争の記憶は薄れ、国家を意識させるのはオリンピックの報道に傾斜していたように思われる(かろうじて深夜に良心的な地方局制作の番組が放送された)。このタイミングで憲法改正を言い出す首相の政治感覚に大きな疑問を持ちつつ、改めて多くの犠牲の上に成立した戦後の平和主義の原則に思いを巡らす。
バベルの出来事以来、人間は過ちを際限なく繰り返してきたことを歴史は語る。己が権力を示すために領土を拡大し、占領した国と人々の多様性を認めず、一つの文化を強要する政策を取る権力者が次々に現れたことを歴史は証言している。
「高い塔」を建てようとした我が国の戦前の歴史の中についても思いを寄せたい。隣国を併合して一つの言語、一つの文化を強要し、領土を奪い、言葉を奪い、名前を奪おうとした「国家」の行動は、一つの権威の下で全てを統一しようとする試みだった。
かつてユダヤ民族は戦いに敗れ、強制的にバビロンに連行され、捕囚の民として苦難の生活を余儀なくされた。彼らにとってバベルの物語は、一つの力で世界を支配しようとするこの世の権力者が、やがて散らされていくという希望のメッセージとして受け止められたのではないか。
本校の姉妹校である韓国の崇義女子校に残されている一枚の写真を思い出す。1938年に宮城遥拝を拒否して閉校し、戦後ソウルで再建された学校だ。その場所は日本の支配の象徴だったソウル神社の跡地であり、その社を仮の校舎として再開された学校は、そこで生徒たちの礼拝が捧げられたのだ。まさに象徴的な光景だった。
私たちの社会はどこに向かうのだろう。どんな時でも失ってはならないのは、人間が助け合う存在であるという本質と、それが人間の罪ゆえに失われていく現実を見抜く眼(高い塔に騙されてはならない)を持ち、そして回復への希望を失わないことだ。暑さの中でそんなことを思い巡らしていた。