マイクロアグレッションとは、「思い込みや偏見によって、無自覚のうちに相手を傷つけてしまう言動」を指す言葉だが、それは日頃から心の中に潜んでいて、差別や傷つけたいという意図のあるなしに関わらず、対象となった人やグループを侮辱するような敵意・中傷・否定のメッセージを相手に与えてしまう言動であると言える。小さな攻撃のように見えて、それが重なることで大きなダメージを与えてしまうのだ。
今月の読書会で読んだのは、若い児童精神科医で脳科学者の内田舞氏が著した「ソーシャルジャスティス」(文春新書2023)だった。この本の中では、SNS 上にしばしば起こる「炎上」という現象の背後にある人間の心(脳の仕組み)について扱われていた。人間の心の奥底に存在する弱者への差別や偏見をどのように克服できるか、社会正義はどう実現できるかを、コロナ禍でのアメリカ生活のなかで、自らが体験した、誹謗中傷などを受けたエピソードを中心に記されていた。非常に興味深く皆で読むことができた。
この7月には都知事選挙があったが、選挙におけるネットを用いた主張や発言の影響力が話題になっている。ネット空間には、他者との対話や討論を伝える動画はほとんど見られず、一方的な主張、とりわけ他者への攻撃、誹謗中傷と見られる話題提供が山のように載せられていた。それに親和性を感ずる人たちにより、それが拡散されるという社会現象が起きている。
自らの身の上に起きたら、絶対に許すことができないようなパワハラ的なパフォーマスに関心が寄せられ、被害者の心情は蔑ろにされ、まるでそれをドラマの出来事のように「鑑賞」している。弱みを持つ人を徹底的に叩く人格的攻撃が止まない。トリックスターのような存在が脚光を浴びている。
SNS の発信先は、人が暮らしている「社会」ではなく、自分の意見に賛同してくれる匿名性の高い特異な集団なのだろう。実態のわからぬ彼らの承認を得るために、発言者は短い言葉で自己主張をエスカレートしていく。人は誰でも承認欲求を持っているが、過激な意見ほどそれが満たされる構造を持っているのが、ネット空間の不思議なところだ。だが根底にあるのは不安と満たされない思いなのではないか。
社会心理学者マズローが説明したように、人が本当の自分を生きるという自己実現欲求を獲得するには、前提として生理的欲求、安全の欲求、社会的欲求、承認欲求が満たされていることが大事なのだが、その欠乏が他者への攻撃に向かわせてしまうのだろうか。人間性が破壊されている現代の恐怖を感ずる。本来の「社会的動物」である人間とは、相互に思いやり労り合い、互いの弱さを補い合うことで、全体としての生存を可能にしてきた存在ではなかったか。自らの権力と豊かさを誇示するために高い塔を建て、結果として相互の言葉が通じなくなっていったバベルの塔の故事から学ぶことを忘れた、人間の愚かさを想う。若い世代が再び過ちを犯さぬように歴史から学べることを、彼らの心に届けなければならないのだが、この時代にそれはどうしたら良いのだろう。困惑と焦燥感を感じながらも大人社会の責任を痛感している。