鬱陶しい梅雨の季節のはずだが、近ごろ季節の移り変わりを体感することが少なくなったような気がする。地球温暖化による気候変動のせいか、突然の豪雨や真夏を思わせる暑さに襲われる日々が続いている。梅雨の時期を代表する紫陽花は各所で花開いているが、名前を知らぬ様々な品種があり、それが2000種近くもあると聞くと何故か戸惑いを感じてしまう。緩やかに季節が巡ってゆくのを鑑賞してきたかつての人々が共有していた感性は、どのように継承されていくのだろうか。
世の中の変化の激しさを感じるのは、歳を重ねてきたからだろうか。情報革命の進展は、私たちにとって異質の世界を創造しようとしている。AI技術が人間の仕事の大半を肩代わりし、人間の思考領域にまで侵食しようとしている。そういう時代が訪れる中で、生身の人間の感じる痛みや悲しみ、愛する想いや心配する気持ちを伝え合う人間のコミュニケーション力を、人はどのように次世代に継承していくのだろう。
人は人と出会って人間になっていくと信じる私たちは、人々が分かり合えない現実に直面している。対話の中核にある言葉の力が崩れているように思えてならない。言葉が自分の感情の表出手段としてだけ用いられ、人間の知恵や知識も情報としてのみ受け取られようとしている。そして社会の分断が進み、本来人間が持っていた相互性(互いに思いやる心)が失われているように思われる。物質主義に飲み込まれていく先進国社会の日常を前に、ミヒャエル・エンデが描いた「時間泥棒に立ち向かうモモ」のような感性の大切さを、どう伝えていったら良いのだろう。
人は時々立ち止まって今を振り返る時を持つことが大事なのではないか。特急列車から降りて、周囲の景色を眺めることが、自分を回復させるために必要なのだろう。気付かぬうちに現実に流され、当たり前になっている日常を振り返ってみるところからしか、自分を取り戻すことは、出来ないのではないか。
6月の初めに数日間、旧知の人々と共に、「静まりのためのリトリート」を持つことができた。日常生活から離れて立ち止まって、自分の置かれている場所や、担っているものの意味について、じっくり考えるための時間を持った。忙しく動き回る生活から一歩離れて、自然の中で心と体を開放し、沈黙の中で五感に働きかけられる刺激を受け止める時間を持った。半年分の重荷が降ろされるような幸いな時だった。
学校生活を送る生徒たちは、3年間、6年間という限られた時間の中に、区切りとなる行事や出来事が設定されているのは幸いなことだ。その節目は立ち止まる経験ができる場となる。振り返り、気持ちを新たに再出発できる。またクラスという集団で、共に体と心で体験する学校行事は、中高生時代の季節の記憶として留まっていく。
6月になると、学校内では音楽会のために合唱の練習をする生徒たちの歌声が響いてくる。音が呼び覚ます記憶を懐かしく感じる。何十年も前のクラスの光景が蘇ってくる。積み重ねられた記憶の数々が、6月という季節をまとまりのあるものにしていく。流れゆく日常の中に、こういう思い出を重ねていけるということは、何と幸いなことだろう。今年も楽しみに生徒たちの合唱を聴きたい。