時代を映す衝撃的な事件をいうものがある。節目の月日が近づくと、過去の記憶を呼び覚ますように、事件そのものと関係者のその後の歩みがメディアから伝えられてくる。その度に繰り返し思い出したり考えさせられたりするのも事実だ。しかし事件以来直接自分とは関係なくとも、ずっと心にあり、重く深く心の奥に沈んでいく事件もあるものだ。
「秋葉原無差別殺傷事件」と名付けられた事件から10年の年月が経過した。無差別に無関係な他人の命を多く奪った事件そのものと、犯人が発信していた言葉の数々が、ずっと心の奥深くに残っている。あれから10年を経て、被害者の家族にも、また加害者の家族にも深い闇が続いていることが再び報道されていた。識者たちは当時も今も、この事件について様々な理由付けを試みているが、闇の深さはいっこうに晴れてこない。その後も世界中で無差別殺傷事件が頻発し、闇がますます広がっていくように思われる。人と人の間が分断されてしまったこの世界は、いったいどこに向かおうとしているのだろう。そんなことを思い巡らしていたら、また新幹線の中で「誰でも良いから傷つける」という事件が起きた・・・。
秋葉原事件が起きた時、犯人の育ちの問題がしきりに伝えられていた。競争社会での中折れ現象や自尊感情を失った若者の回復のためのセイフティーネットのない社会の有様などが語られた。その後、社会には様々な格差がますます広がり、乱暴な自己責任論と閉鎖的で排他的な主張の横行は、弱さを抱えた人々の生きにくさを拡大している。こんな社会の中で明日の希望は語れるのだろうか。教育は何を提供できるのだろうか。
ある人たちは、共同体の崩壊がこのような現象を生んでいると考え、戦後の個人の尊厳を土台とする教育の欠陥が露呈しているのだと主張している。公共の精神の再建を柱とする「新しい道徳教育」をすべての国民に施していくべきだと考え、それが国の行政政策を動かして、道徳は教科化された。不確実性の大きな時代に「弱さを克服して強く生きること」を求める生き方をこれからの子どもたちに求めようとしている。しかし自尊感情を失い、生きる意味を見失って、漂うような日々を送っている子供たちに、これらの徳目はどんな意味を持つのだろうか。闇の彼方に光を示すことになるのだろうか。
教育が提供しなければならないのは、「にもかかわらず」生きる意味があるという希望だ。目に見える現実は絶望的なものであっても、闇の彼方に光があることを、それはほんの微かに見える光だとしても、それを示すことを怠ってはならない。聖書は一貫して人間の罪の現実だけではなく、その救済と回復のメッセージを語っている。私たちも「闇の中に輝く光があること」を語らねばなるまい。それを理念や抽象的な考えとしてではなく、「体験」する真理としてその場を提供していかねばならないだろう。子どもたちの自己肯定感が本当に育つような機会を作ることこそが、学校教育の責任なのではないかと思う。
毎日のように起こってくる悲惨な事件や人間の恐ろしい言動に、心塞ぐ思いにかられる。けれども心穏やかにするために、関心を切らしてしまってはならないと思う。「困難な状態に耐える力」を働かせることが求められているのかもしれない。そして「変わることが出来るのが若さだ」と信じて、私たちは希望を語り続けることをやめてはならないと思わされている。