玉川聖学院 中等部・高等部

いつまでも残るもの
~この時代の教育を考える

いつまでも残るもの<br>~この時代の教育を考える

「新しく創める春に」

卒業式を前に咲き始めた桜は、ギリギリ入学式まで持ちこたえてくれた。やはり4月になると新しい風が吹き始めていることを実感する。「何かが始まる」というのは心地よいものだ。あらゆるものが曖昧になっていくように思われる社会の中で、一つの節目を大事にする日本の学校文化は健在であることを感じさせるのが、この4月の空気だ。

日野原重明先生の著書『老いを創める』 (朝日新聞社)の冒頭に紹介されていたユダヤの哲学者マルチン・ブーバーの言葉は刺激的だった。
「年老いているということは、もし人がはじめるということの真の意味を忘れていなければ、すばらしいことである。これをこの老いた人は高齢に達して初めて根本的に学びとったのだ。彼の物腰は若くなく、年相応に老いてはいたが、しかし、若々しい。はじめるということを知っている仕方が老いていないのだ。」(マルチン・ブーバー「隠れたる神」)

今まで数十年の教師生活の中で、若い生徒たちの風を感じながら新しい気持ちで4月を迎えることが出来たことは幸いなことだった。若さの特権は再スタートを切ることが出来る事だという事実を、体験的に知ることが出来た。4月を契機に見事に変身していく生徒たちに数多く出会うことが出来たことは、人間は信じるに値するという確信を深めさせてくれたように思う。

この4月から私自身も新しい歩みを始めることになった。この玉川聖学院での役割は継続するが、昨年度まで教鞭をとってきた国際基督教大学や早稲田大学での講義は定年となり終了した。しかし不思議な導きで東京町田市にある学校法人「日本聾話学校」の理事長として経営の責任を担うこととなった。今まで接してきた多くの学校の中で、生徒の成長発達の最も深いところと関わっている学校で、現場の教師達を支える役割を与えられた事に身の引き締まる思いがしている。

日本聾話学校は1920(大正5)年にライシャワー宣教師が、聴覚に障害を持たれた娘のための教育を契機に創設した聴覚障害児のための学校で、100年にわたって、難聴の子どもたちが、自らの持つ聴覚を最大限にいかしつつ、「聴くこと、話すこと、学ぶこと。歌うこと」を楽しむことを目指している。何度か訪問してきたが、そこで学ぶ子どもたちは難聴という困難を抱えつつも、自己肯定感をが育ち、自信をもって自分の人生を切り開いていく力を身に着けている。乳幼児期から中学までの一貫教育の中で、子どもたちは一人ひとりと向き合う教師たちの支援を受けて見事に固有の人格を育んでいる。キリスト教教育が結実している学校だといえる。

今まで玉川聖学院の生徒たちの育ちから体験的に教えられてきた「人の育ち」の不思議さと、そこに働く神の隠された知恵を、さらに味わえるようにと私に提供された場であるように思う。ブーバーの言葉のように「はじめる」ことの意味を再び味わいたいと思う。そして、気づけたこと、新しく発見した真実を、これからも発信していきたいとの願いをもって、今年の春を迎えている。