玉川聖学院 中等部・高等部

いつまでも残るもの
~この時代の教育を考える

いつまでも残るもの<br>~この時代の教育を考える

成人を迎えた卒業生と接して

 クリスマスから年末年始と慌ただしく日々が過ぎてゆく。気をつけないと社会で起きている出来事はすぐに消費されて過去のものとなり、記憶の片隅に追いやられていく。未解決の課題が山積する中、全てが相対化され、問題の固有性や彩りが失われていく。コロナ禍もウクライナ戦争も、防衛費増強も貧困格差の問題も、そしてゴシップや噂話と同列に扱われ、まるで商品情報のように電波やSNSを通して私たちのところに運ばれてくる。「立ち止まって考える」文化が失われていると思える現代、私たちはどんどん社会の風潮に流されていく。この国全体が痛恨の痛みを味わったあの戦争の惨禍の記憶すら、今を生きる私たちから遠ざけられていく。危機を叫ぶ声も情報の洪水の中に飲み込まれているように思える。

 「立ち止まって考えてみること」は、本来は年中行事や通過儀礼として私たちの生活の中に組み込まれていたが、あらゆる境界線が曖昧になってきた社会状況の中、よほど強く意識していないと行事は形骸化して、立ち止まることは忘れられてしまう。自分にとっては昨秋に、1週間のリトリートに参加して、自分の今までの歩みを振り返る機会を得たことは幸いなことだった。私たちはいつも何かに追われ、なすべきことが毎日山積みされている。現代の生活には「静まりの時」が必要であることを実感している。

 卒業生たちの「成人礼拝」が今年も行われた。コロナ禍に卒業式を迎え、進学先でも戸惑うことの多かったであろう彼女たちが久しぶりに集まった。晴れ着を装った二十歳の表情には、中学に入学してきた頃の面影をみることは難しかったが、成長した姿を見ることができた。成人の儀式は人生の区切りの時として多くの文化の中に存在している。いつから大人として承認されるのか、それは法律の問題、社会通念の問題とともに、本人の心の構えの問題も大きいのだろう。区切りの時はその意識の覚醒を促してきたのだろう。礼拝を持って区切りの時を迎えられるのは幸いなことだった。

大人になるとはどういうことか、ずっと人間学講座の中で問い返してきたテーマだが、それは時代や世相に流されずに、個人として与えられた自分の人生の課題に対して、覚悟を持って引き受けていくと言う「一人であることの自覚」と、人間の特性である互いに思いやりの心を持ちつつ相互依存の中を生きていく「人と共にあること」と言う二つの側面が、矛盾ではなく一人の人格の中に統合されていくことなのだろう。主体性と共感力を伴う決断のためには、確固たる価値の縦軸を持つことが大事だと思う。

大人への自立過程を歩むには、幼い頃から様々な体験を通して学びつつ、心を育てていくことが何よりも大切だ。教育の役割はそのプロセスを支援することであり、危機や困難を含めたその体験が、本当の経験として心に刻み込まれていくための支援をすることだろう。新成人となった一人一人のこれから先の人生が、手応え豊かな「大人としての人生」となるようにと心から祈ると共に、改めて教育の持つ役割について思い巡らす時を持つことができた。