玉川聖学院 中等部・高等部

いつまでも残るもの
~この時代の教育を考える

いつまでも残るもの<br>~この時代の教育を考える

預言者の洞察力

クリスマスが近づくと、毎年礼拝でイエスの誕生の預言と言われるイザヤ書が開かれる。今年も礼拝当番に当たっていたので、イザヤ書9章の「言葉」に思いを巡らした。そこに記された預言者イザヤの、時代を超える驚くべき洞察力に圧倒される思いがした。 今まで気づかなかった聖書の奥行きを実感する機会となった。

歴史的な事実であるが、イザヤの時代、紀元前8世紀に北イスラエル王国はアッシリア帝国の侵略を受けて滅ぼされた。ユダヤの12部族であったゼブルン族とナフタリ族の居住地ガリラヤには異民族が移住し、彼らもまた他の土地に強制連行されていった。その後この地域は民族的にも宗教的にも入り混じり「異邦人のガリラヤ」と呼ばねばならぬほど、荒廃した土地となってしまった。

しかし、絶望的に見える時代の中で、イザヤはこの暗闇のはるか彼方に偉大な光があること、瀕死の状態で生かされ続ける部族の未来に光がのぼることを預言したのだった。北イスラエル王国のユダヤ人たちは、富と世俗的な豊かさの中で豊穣をもたらす偶像の神々に仕え、安逸を貪り、再三にわたる預言者たちの警告のことばを受けながらも、「主なる神のことば」に背き、紀元前722年には完全に敵国アッシリアに滅ぼされてしまった。ガリラヤ地方は悲しい絶滅の記憶がある地域になった。

そんな中で、イザヤは不思議な預言をした。「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」(イザヤ9:2)イザヤはなぜ神が背信の地ガリラヤに光を当たるのかを理解できたのかはわからない。ただ絶望の向こう側にかすかな光を見たのかもしれない。それは「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君と呼ばれるひとりのみどり子の誕生」において明らかにされる神の救済の歴史の成就の幻を垣間見たのかもしれない。イエスはこのガリラヤ地方で「神の国の福音」を語り始められた。預言者の洞察力は見えないものを見たのだった。

目に見える現実がどのように困難であろうと、事実の向こう側の真実を見抜く眼を持ち、その真実を発信することは、時代に対する責任なのかもしれない。暗闇が深いほど、そのメッセージは意味を持ってくる。

最近、以前に読んだE.フロムの「自由からの逃走」を再読し、R.ニーバーの「光の子と闇の子」を読んだ。いずれも1940年代のアメリカで書かれた書物で、第二次世界大戦という危機的な状態の中で、知識人たちが力を失っている「デモクラシー」について丁寧にそして熱く語っている。読み返してみて様々な発見があった。今まで当たり前に思えていた民主主義がある意味で危機に向かっているように感じている現在、暗闇の中で書かれた書物の持つ説得力に再び学ばされる思いがした。私たちの国の中に吹き始めている風に何を感じて、何を発信すべきなのか考えさせられる。

イザヤは歴史の彼方に想いを寄せて、今目の前に見える荒廃した土地の向こう側に、確かに光を見ることができた。彼が見ていたものは、絶望的な人間や混乱する時代の彼方に、神が働かれるもう一つの真実だった。預言者の洞察力は、現実の闇を指摘するだけでなく、遠い未来に用意されているかすかな希望をも見逃さなかった。教育とは希望を語る営みだと言われるが、私たちはどのように希望を語れるのだろう。

クリスマスは悲しみや絶望の向こう側に映った幻として私たちにも提供されている。「平和の君」と名付けられた方の力を本当に必要とする時代のなかに私たちも置かれている。私たちも今年のクリスマスに、預言者の洞察力を持って、時代とその未来を見通す目を養っていければ幸いだ。