昨今世間を騒がせている東京五輪・パラリンピック組織委員会会長の「女性が多いと会議に時間がかかる」との発言は、何重もの意味で私たちの社会のあり方を浮き彫りにし、改めて民主主義や道徳について考えさせられている。
第一に言うまでもなく女性を蔑視する発言で大顰蹙を買っている。また、女性を一括りにして断じていることが、個性や特性は千差万別であり、それぞれの違いや多様性が人間の豊かさを表していると言うことを無視するかのように、「女性」と言う総称を用いて特性として否定的な見方を公言した点が非常に危い。もともとグローバルジェンダーギャップ指数が世界153カ国中121位にある我が国の現実に対する危機感を持たずに、公的な立場の人物が公の場でこのような発信することは、世界に対してこの国の現実を露呈するようなものだった。国内外からの批判が噴き出すのは当然なことだといえよう。
第二は、公の場でその発言を許してしまう人権感覚の希薄さを集団が保有していることだ。その場で笑いが出たというが、明らかにそれを容認する空気が「公けの委員会」の中にあったのではないだろうか。集団の閉鎖性、ウチとソトを区別する身内集団主義が、少なくとも委員会の中に存在していたことは、隠すこのとのできない事実なのだろう。あるいはそのような忖度が強く働く場所であったのだろうか。コロナ禍で、五輪開催の是非の判断が問われている状況の中で、この委員会の体質への失望と怒りが、発言をした人物に集中しているように思われる。
第三に、発言内容に対する絶望的な思いだ。「会議は短いほうが良い」〜それは時間の問題ではなく、民主主義の根幹に関わる合意形成の過程への挑戦的な発言だからだ。民主主義社会とは、それぞれが合理的で多様な意見や考え方を持つこと(道理ある不一致)が認められる。違っていることを前提とした中で、対話や話し合いにより、皆が満足できる形を探ることが求められる。
この点において、昨年6月に日本学術会議哲学委員会が出した「道徳において『考え、議論する』教育を推進するために」と言うタイトルの報告書の中で次のように指摘している。文科省が推進しようとしている考え議論する道徳を行うためには、安易に大人が既存の道徳の価値を注入すると言うあり方から、様々な考え方が容認される「道理ある不一致」時代の道徳教育に転換していくことが大切だと述べていることに注目したい。
今、社会の中で起きている問題は、教育の問題と言えるかもしれない。人を類型化して判断し、場の空気を優先し、誰かに忖度して正しいと思える意見を主張しない、そして議論を避け同調圧力に屈していく姿は、自分をたえず多数の側に置くことで身を守ろうとする私たちの姿ではないか。先人たちの多くの犠牲の上に築かれてきた民主主義社会を空洞化させないためにも、クリティカル(批判的)な思考を伝え続けていくことが、教育の仕事ではないかと強く思わされている。