ようやくアメリカ大統領選挙結果が見通せるようになってきた。それにしても、ずい分長い間の争いだった。現大統領の就任以来、4年にわたり国内を二分する対立構造が続いて来た。対立を煽る言動がさらなる対立を生む。そのエネルギーが政権を支えてきた4年間であったようにも思われる。ハンナ・アーレントは、答えを安易に求める二項対立が民主主義を崩壊させることに警鐘を鳴らしたが、アメリカのみならず、世界中が「複雑さに耐え抜く力」を失い、白か黒か、正義か悪かの対立構造の中に、引き込まれているように思えてならない。
我が国の政治や社会の風潮も、声高な主張が公然と述べられるだけでなく、自分と異なる意見や考えに耳を傾けることをせずに、仲間内だけの狭い領域だけの論理を振りかざし、共通の敵を作ることですべての正当化する言説が横行している。ネット空間はそういう考え方を養う土壌となってしまっている。政治の現場は議論以前のきちんとした説明責任も果されていない。
社会が失くしてしまったものは「対話」だ。対話(ディア・ロゴス)の前提は、人間と人間が対等な立場に立って、共に最適解を求めている真摯な姿勢であり、答えは両者のなかにあり、対話を通してそれを見つけていこうという精神にある。これが古代ギリシャから積み重ねられてきた人類の知的財産であった。
コミュニケーション能力を育成するとは何を意味するのだろう。現実にあわせてパワーゲームに勝つスキルを磨いていくことなのか、それとも相手を尊重する対話力を養っていくことなのか、教育の本質が問われているように思う。学校教育は、プラトンのアカデメイア以来、本来この対話力を養うことの中にあったのではないか。一方的に知識や情報を伝えるだけなら、学校は必要ないのかもしれない。しかし、今回の新しい学習指導要領が指摘している「主体的・対話的な深い学び」は、学校と言う場の持つ教育力により養われるものだと思う。
しかし、本当に生徒自らが主体的に学びに向かう動機付けを与えてきたか、簡単に導き出すことのできない正解にそれでも向かっていくために対話が重ねられているか、そして獲得した知識が自分の思想を深めていく方向に働いているか、などということを考えさせられる。
便利さになれてはいけないと思う。簡単に結論づけてはならないと思う。謙虚に今理解していることを土台として、未知の世界を探究していく心を持ち続ける、本当に自分で「分かる」という喜びを提供していくことこそが、教育の仕事ではないか。そのためには教師自らが、限界があることで諦めることなく、探究という冒険を続けていくという姿勢を持ち続けることが、次世代に残していくあり方ではないかと思わされている。