玉川聖学院 中等部・高等部

帰国子女入試合格発表

いつまでも残るもの
~この時代の教育を考える

いつまでも残るもの<br>~この時代の教育を考える

再び立ち止まって考える

新型コロナの感染が再び日本全国を襲っている。もうこの状態が半年近くに及んでいるが、未だに伝染のメカニズムに対する科学的なエビデンスに基づいた処方箋は確立されず、治療薬とワクチン開発の目処も立っていないことから、不安だけが肥大化している。人々は様々な情報に翻弄されつつ、立ち止まることをせずに毎日流される数値や情報の数々に、右往左往している状態がずいぶん長い間続いているように思う。

2月末の学校への突然の休校要請から始まり、緊急事態が宣言されることで一律の自粛状態が続いたが、その間の検証もなされないまま、7月になって再び感染が拡大してきた。だがアクセルとブレーキを同時に踏むような指示に戸惑う毎日が続いている。次第に社会の分断が深まり、それぞれの立場からの一方的な情報が今日も発信されている。
この感染の実態はなぜ的確に伝えられないのだろうか。半年経っても「三密を避ける」という掛け声だけで、具体的な指示はないままだ。依然として夕刻以降の街で見られる飲食の光景は、どう見ても三密状態の様相だ。努力して社会的距離を保とうとしている店もあるが、そもそも構造上「三密を避けられない飲食店」で、密集して歓談している多くの人々の姿を目にする。リスクへの国民的なコンセンサスは存在していない。5月の自粛状態とは明らかに違う。

一方文部科学省は、授業再開後に学校の教室内でのクラスターはなかったと報告している。確かに学校でのクラスター発生の報道は幾度か目にしたが、教室内感染ではなかったようだ。(高校の寮での大量感染報道と、中学校での部活間感染が報告されている)。学校の対応も徹底しているのだろうが、子どもたちのソーシャルディスタンスとはこれで良いのか考えさせられる。分散登校をして密集を避ける措置まで必要であったか、これからはどうであるのか、科学的根拠に基づいた議論はなされているのだろうか。日本小児科学会はすでに5月の時点で、「教育・保育・療育・医療福祉施設等の閉鎖が子どもの心身を脅かしており、小児に関してはCOVID-19関連健康被害の方が問題と思われる。」と報告しているが、この秋からの学校生活はどのように展開されていくのだろうか。

高い危機感と緊張感の中で日々を過ごしているのは、弱い立場の人たちを守る仕事に従事する医療関係者と社会福祉の関係で働く人だ。彼らは身構えながら患者や入居者を守っている。また本当に日常が壊された人は「声」をあげることもできないような状態に置かれている。声高な発言を繰り返す一部の人々がいるが、多くの人々は自ら沈黙を守っている。状況判断の基準が個人に任されているように感じるからなのではないか。伝えられる情報の曖昧さが余計な不安を引き出しているのかもしれない。私たちに必要なのは正しく判断するために各自が「立ち止まること」なのだが、日常生活のなかにまで情報が侵食していて、止まることなくニュースは流され続けている。情報には空白がないので、どこかで自ら流れを遮断しなければ「納得解」(正解に一番近い最適解)は得られないだろう。

混乱する心に旧約聖書の言葉が届く。〜「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。」(詩篇46篇)心が囚われているものを一旦捨てて、人生の真実に目を向けて見よ。その時にそれまで見えなかったものが見えてくる〜と語りかけられているような言葉だ。8月は歴史の真実に思いを馳せる季節だ。目の前の不確実な事実から目を上げて、歴史の検証を経てきた過去の出来事、過ちや失敗の記録から学びとれる真実に目を向けるために、立ち止まって洞察力を深める日々を送ることが求められている。そこに問題解決の糸口があるように思える。