社会的混乱が長く続いている。2月末に出された学校に対する登校自粛要請は継続され、はや3ヶ月になろうとしている。緊急事態が続き子どもたちは家に止まり続けている。4月以来、一同に会すことのできない新学期に、各校では工夫を凝らして欠けが広がらないように、様々な形で学習への動機付けを行っている。
しかしあろうことか、現場の生徒や教員の努力を蔑ろにするような「9月入学論」が、各地の知事たちから発せられ、行政の長は検討に値すると発言しそれを指示した。行政が本来なすべきことは、このような状況下での学習への補填のあり方、そして入試等への配慮の公表、それにICT環境の整備のための予算的措置への決断と実行以外にあり得ないのではないか。いやその前に、各国の教育相たちが実施しているような、子どもの教育を受ける権利を制限していることへの謝罪の気持ちの表明なのではないか。
9月入学がグローバルスタンダードだとの主張は、本来、半年の入学の前倒しをして、欧米に入学適齢期を合わせることを意味していたはずだ。18歳選挙権の実施は、それまでに高校教育を終了することで実質的な意味を持つ。社会全体の制度を変更してまで、学齢を1年も遅らせることに何のメリットがあるのだろう。あまりに近視眼的な主張、部分で全体を測ろうとする発言と、それを拡散させるこの国のあり方に愕然とする。現場からの声を無視した政治家たちのパフォーマンスに子供達が振り回されてしまうことを懸念する。
非常時には人間や社会の本質が現れる。かつてわが国でも関東大震災や太平洋戦争中に悲惨な出来事が起こったという史実はそれを物語っている。私たちの国は誰を大事にして何を軽んじているのかが、今問われている。子どもの人権を大人と対等なものとしてそれを尊重しているか、弱い立場のマイノリティに属する人々の生活に十分な配慮がされているか、国の政策の本質が問われていると言えるだろう。同時に問われるのは、私たち市民社会のあり方でもあるだろう。しかし歴史は、厳しい現実の中でも人間性を発揮した人たちの存在があったことをも明らかにしている。私たちの実質が問われているのだ。
教育もその例外ではないだろう。教育共同体としての本質が課題となっている今、私たちは目の前の生徒たちにしっかりと向き合っているだろうか。玉川聖学院という現場で、現役の教師たちが生徒達の成長のために支援に取り組もうとしている現実を見て嬉しく思う。いち早く礼拝と授業のオンライン化を推進している。生徒との個別の対話も進めている。応援メッセージをアップし、この時だからできることに取り組んでいる。危機の中で、むしろ教育的な営みが形を変えて実践されていることを垣間見、この経験自体がより良い教育のために磨かれていくことを期待したい。教育の現代化という課題に取り組む「時」がきているのだろうから。