先日、卒業後40年以上の同窓生のための「リユニオン」(Reunion)〜再会の時、が開かれた。それぞれの人生を経てきた卒業生たちに、自分の人生を立ち止まって振り返る機会を提供したいとの思いで今年度から始められた新しい集会だ。懐かしい旧教職員たちを含めて、100名近い方々が集い、礼拝から始まる学院生活を追体験し、それぞれの生徒時代に思いを巡らせた。
この「立ち止まって振り返る」ことは人が人生を歩む中で大切なことだと思う。伝統的に大事にされていた年中行事や通過儀礼は、そのために整えられた生活の知恵であったように思う。しかしあまりの忙しさの中に置かれた現代人は、その生活に慣れるに従い、あえてその流れに乗ることを求めて立ち止まることをしなくなった。形式的に残っている風習は一時のイベントに化してしまっている。
日々の生活の中に隙間を作って我が身を振り返る習慣も消えてしまっている。かえってその隙間を埋めるように物や情報で心を満たすことが、コスパ(コスト・パファーマンス)が良いと思われている。電車の中でスマホの画面を覗き込む大勢の人たちにとって、隙間は落ち着かない空間に映っているのだろう。だが、その隙間がなくなることで、じっくり考えるという営みが極端に減ってしまっているように思えてならない。早く黒白の決着をつけ、結論を出すことが求められているかの如く、人々は生き急いでいるように思えてならない。
学校時代の3年間、6年間という限られた時間の中には、立ち止まる節目がいくつも用意されている。そしてその節目ごとに、自分を振り返る場が設定されていた。入学式、始業式、さまざまな行事、定期テスト、終業式、卒業式・・・その度に自分を見つめ、新たに「始める」決意を持って、新しい毎日を始めるのだった。竹が節ごとに成長していくように、成長期にはどうしても節目が必要だった。それは学校時代で終わることではないのだろう。
10月末に個人的に「立ち止まって振り返る」ためのリトリートに参加した。その中で、自然の中に身を置き、沈黙のうちに五感を働かせて生身の体で感じられる世界に気づき、それを味わう時間をたっぷりと過ごす「静思の時」を1週間にわたって持つことができた。そして改めて自分が何者であるのか、自分のアイデンティティーはどこにあるのかを確認する時を持つことができた。静まりの中で自らの魂に響いてくる声を聞き取ることできた。日常生活の中で置かれた場所で頑張れるという思いを持って戻ってくることができた。立ち止まることの幸いを再び味わうことができた。
ミッションスクールに学んだ卒業生たちにとって、学校が「魂の故郷」になっているなら幸いだろう。故郷とは、自分の思想や行動を作り出す原点であり、また人生の分岐点や節目に到達した時に、立ち止まって振り返ることのできる場所であり、疲れた心を癒してくれる場所であるからだ。安心して過ごすことのできる安全地帯や港を持つ者は、人生の冒険で出ていくことができる。そして冒険は人生を豊かなものにする。リユニオンに集まってきた旧知の卒業生たち一人一人と向き合った。懐かしさと共に、彼女たちのさらなる歩みの上に豊かな祝福があることを祈りたい。