ロシアのウクライナ侵攻のニュースが連日伝えられる中、遂に国内の死者が3万人を超えようとしている新型コロナウイルスの惨禍は、次第に報じられることが少なくなりつつある。高齢者や基礎疾患を抱えた弱者を守ることより、疲弊した経済を活性化していくことが優先課題であるかのような論調が強まっている。ここにも分断が色濃く起きていることを感じる。コロナ禍の初期に、中国の作家方方さんがロックダウン下の人々の生活を描いた「武漢日記」の中で、「ある国の文明度を測る唯一の基準は、弱者に対して国がどういう態度を取るかだ。」と書いていた。果たしたこの2年の経験の中で、弱者はどれだけ救われただろうか。
子どもたちも社会的弱者の範疇に入るのだろう。コロナ禍に置かれたことによる心と体の発達に対する影響は大変大きいと思われるが、どれだけ子どもの立場に立った支援や政策が実施されて来ただろうか。日頃から禁止事項の多い学校生活の中で、子どもたちはますます多くの制約を引き受けなければならなかった。ソーシャルディスタンスの遵守は、生身の身体の関係性を損なう危険を孕みながら、それでも「安全」の確保のために徹底されてきた。
教師たちの負担が多い中、それでも昨年以降多くの学校でオンライン等での授業に加えて、細心の注意を払って行事などの特別活動を実施しようとして来たのは、やはり失うものの大きさを知っているからであろう。同時にその姿勢は、各校の「安全」への考え方が問われる練習問題であったように思われる。
久しぶりに対面で行われた保護者読書会で読んだ『ポストコロナの生命哲学』(集英社新書)の中で、著者の一人伊藤亜紗氏は、
「信頼」と「安心」の意味するところは逆だと言われています。「安心」が、相手がどう
いう行動を取るかは分からないので、その不確定要素を限りなく減らしていくものだとす
ると、相手がどういう行動を取るか分からないけれど大丈夫だろうというほうに賭けるの
が「信頼」です。
と語っている。安心を得ようとすると規制が強まる。コロナ禍にあり安全を優先することで、生徒の体験的な学びの機会はどんどん失われていった。生徒たちの良識に基づく行動を信頼して、出来る限り体験の場を提供しようとするときに、体験を通して多くの学びを得ることができた。その差は決して小さくなかっただろう。
連休前の4月の終わりに、体育祭が国立代々木競技場第一体育館で行われた。中高の生徒が一同に介して、マスクは着用していたものの、生き生きと思う存分走り回る姿を久しぶりに見ることが出来た。高三の気持ちの揃った美しいダンスも見せてもらった。躍動する若さに接し、オリンピックのためにリニューアルされた体育館の高い天井を見上げつつ楽しむことができた。一緒に行事に見学してくださった大勢の保護者たちの学校の営みに寄せる信頼の確かさを垣間見ることもできた。保護者の協力のもとに実施できた過去の様々な出来事についても、再び思い返すことができたひと時だった。改めて教育を作り出すものは何かを考えさせられた。
5月には、PCR検査等を行なった上で宿泊行事も実施することになる。生徒たちにとって一つ一つの体験が心の成長につながっていくことを期待したい。