長引くコロナ禍に加えてウクライナでの戦争、日々伝えられるニュースは私たちの心を塞がせる。それでも4月になって、木々の新緑を目にし、個々に美しい花々に再び出逢い、学校では新入生を迎えると、新しい始まりに心が動かされていく。終末的様相が繰り広げられる世界の中に「始まる」ことが実感できるということはなんという幸いだろう。新入生たちの学校生活が、想像以上に手応え豊かなものになるようにと願っている。本当に大事なものを見つけていく年月であるようにと祈らされる。
コロナ禍が始まって以来、自然や植物に対する関心が芽生えて来たからだろうか、春休みの期間に日々伝えられているニュースから少し距離を取りたいと思ったからかもしれないが、スー・スチュアート・スミス著「庭仕事の真髄」(築地書館)を読んだ。原題が「The Well Gardened Mind(庭のように手入れの行き届いた心)」とあるように、老いや病、トラウマや孤独などの心の痛みを癒す力を、自然の回復力の中に見出そうと説かれている本だ。精神科医で心理療法士である著者が、自らのガーデニング体験を土台として書かれた著作だった。科学的な事実を基礎に置きつつ、自然がもつ治癒力を様々な角度から訴えかける。
私たちが作り出した文明は人間を絶対化し、自然を征服することを目指して構築されてきた。解らないことを解ろうと英知を重ね、動物的本能を抑制する論理による社会構造を築き、自然の摂理を克服することに努めてきた。しかし、本来人間は聖書の創造の秩序に従えば、自然の中であらゆるものを共存してしか生きられぬように最後に造られた存在であり、与えられた想像力や創造力は、大いなる力の中に組み込まれている範囲にしか適応できないもののように思われる。自然の持つ力はそのことを思い出させてくれるのであろうか。困難な中でも「花は人を裏切らない」ことに気づかせてくれるのだ。
次回の読書会で取り上げる『ポストコロナの生命哲学』(集英社新書)のなかで美学者の伊藤亜紗さんが「足し算と引き算の思考」という考え方を紹介していた。現代は締切りや目的達成の時間から逆算して今日行なうことを決めていく「引き算の思考」が社会を支配している。そしてその時間設定に合わない人を障がい者としたことで人間社会は窮屈なものになっている。だが、植物が持っているのは足し算の時間で、太陽の動きに合わせて日々、少しずつ足していくという純粋に生理的な時間だ。コロナ禍で植物に目がいくようになったのは、引き算ができない空白の時間に放り出されて、感覚が植物にふっとシンクロしたのかもしれない、と記していた。
予定表に記されている出来事の準備に追われ、締切や計画の遂行のみに関心が集中し、無駄を排除して「やるべきこと」をこなしているうちに、失われてしまったものの大きさを振り返る。教育や子育ても「引き算の思考」にどっぷり浸かっているように思われるが、それは自然の摂理から離れてしまっているのではないか。目と耳、手と体全体を使って、自然を感じることの中から、人は本来の自分を取り戻すことができるのであろう。マルチン・ルターが語った言葉として伝えられる「たとえ明日世界が滅亡しようとも、今日私はリンゴの木を植える」との言葉を、新たな視点から思い巡らしている。