2021年度の入学式に立ち会った。予測できないコロナ禍のなかで受験期を迎え、制限された日々を通らされて入学してきた生徒たちの存在は、全員マスク姿ではあったが、ホール全体に希望に満ちた空気を醸成していることに大いに励まされた。明日に希望を持つことができるというのは何という幸いであろう。将来を見据えながら新しい一歩を歩み出せるのは「若さ」の特権かもしれないが、その光景を共有させてもらえるだけで、嬉しい気持ちに満たされていく。
残念ながら私たちの社会の現実はあまりに暗い事実に覆われている。先行きが見えないのは、コロナ禍ばかりではないようだ。社会が分断され、事実や真実の識別力が低下し、不正や欺瞞が社会を覆い、社会の明日に希望を持てなくなっている。その故か自分たちの現実を見ようとせず、根拠のない空想的な楽観論にしがみつき、思考停止に陥って健全な社会批判に対して自分を蔑ろにされているように反論する。「対話」が成立しないのは政治家だけではないようだ。異なる考えを互いに理解しようとする営みが失われている現実に、絶望的な思いを持ってしまう。
そんな思いを抱く中で、中世の哲学者トマス・アクィナスの思想をわかりやすく解説している山本芳久氏の『世界は善に満ちている』(新潮選書)を読んだ。今から700年以上前の人物の書いた哲学書の思想を解説しているのだが、読んでいると現代の課題に対する物の見方に新しい視点が与えられる。とりわけ恐れや絶望、憎しみや悲しみに覆われているように感じられるこの世界をどう理解したら良いかのヒントが与えられる。
哲学者(教師)と学生の対話の形式で、トマス・アクィナスの『神学大全』の中で分析されている「人間の感情」についての考察が語られていく。感情の「論理と構造」を丁寧に分析していくことで、自分の世界に対する関わり方が変わることを示す、示唆に富む記述が多かった。愛がすべてのものの根底にあるとの主張は、その愛に気づくことの大切さを教えてくれる。
対話の中から学生は、「愛という感情が、心の中から自発的に生まれてくるというよりは、むしろ、下界の魅力的なものから揺り動かされることによって受動的な仕方で生じてくるという点が面白かった。」と気づくのだが、それを受けて哲学者は「いま自分に見えているものが、この世界のすべてではない。この世界のうちには、まだ自分には見えていない様々な価値、様々な「善」が存在している。ある種の訓練を積むことで、または「徳」を身につけることによって、もしくは自分の心にふとした機会に訴えかけてくる何らかの「善」との出会いによって、より多様で豊かな善の世界へと自らが開かれて行く。私たちの生きているこの世界には、未知なる善が計り知れないほど埋もれているのだ。」と応じている。
入学式に際して、これから起こりくる出会いに向けて、期待と希望を持っている生徒たちを見ていると、トマス・アクィナスの「肯定の哲学」が現実のものに思えてきた。様々な経験を通して、希望が確信に変わることができるような学校生活を送って欲しいと心から願わされた。教育とはそのような体験の場を提供し、体験を通しての気づきの後押しをしていくことなのだと改めて思う始まりの日であった。