コロナ禍が収まらずにむしろ拡大する中で新年を迎えた。しかしこの落ち着きのなさはウイルスの猛威だけが原因ではないように思えてならない。世界のそして我が国の危機の中で、それに敢然と立ち向かえない社会の有り様に対するやり切れなさが、ざわざわ感を助長しているように思うのだ。21世紀の20年の間にこの社会に広がった考え方を「今だけ、金だけ、自分だけ」という表現したのは農業経済学者の鈴木宣弘氏だった。今日の社会風潮を的確に表現した言葉であるように思う。そしてこの言葉は国家的危機に際しても分断が解消されずに国としての方向性が定まらない社会の現実を映し出しているように思えてならない。
第一に「今だけ」という心のあり方が決定的に見落としているのは、歴史的な視野だろう。過去の歴史から学ばずには未来を正しく予測することはできない。太平洋戦争中に軍部にはびこっていた楽観主義と同じように、今回も科学的データや人文学的知見への軽視の姿勢が、政治家のみならずメディアにも世論にも蔓延している。さらに今この時に歴史を作っているという責任を放棄して、行動の検証や公文書を残さず、むしろ隠蔽、改ざん、廃棄などが行われている。「今だけをやり過ごすこと」のみが優先されているから、事実に基づいた議論を積み重ねることができないでいる。
第二の「金だけ」は、文字通り経済的な損得勘定だけが価値基準となっている点だ。グローバルという言葉を用いる人たちの中に、文化や伝統を軽視する隠された物質至上主義の考え方があるように思われる。コロナ禍にあっても国民全体の痛みより、特定の経済活動を優先する思想は、経済優先か感染抑止かの二者択一を迫る考え方の中に表れている。経済が回らなければ自殺者が増えるという文言の中にも、人間をモノ扱いする思想を垣間見る思いがする。悲しみや痛みに寄り添いつつセイフティネットを構築しようとする行動が、少なくともこの国の指導者たちの言動からは出てこない。
第三の「自分だけ」は、欲望を限りなく肯定することで消費文明を牽引してきた社会のあり方そのものが問われている課題だといえるだろう。社会的弱者への想像力を持つことのできない社会は、亀裂を広げ、人々は孤立感を深めていく。世代間の断絶や経済的格差の拡大は、後戻りできぬほど広がっているように思われる。震災や災害などの部分的地域の災害に対しては、援助や支援の手がのべられる社会ではあるが、皆が当事者となった出来事の中では、自らの行動変容を伴うことのできない社会の本質が問われているように思う。
この年、私たちは将来にどんな未来像を描き直すことができるのだろうか。教育は何を語ることができるのだろう。人と人との接触が制限されている現実の中で、新しい日常はどのように再構築されていったら良いのだろう。答えのない問いの前に社会全体が置かれている。しかしもう一つ明らかな歴史の真実は、苦難や困難の中から新しい何かが始まっていくという事実だろう。一年前には再選確実と思われていた、あの自分の支持層だけを優先してきたトランプ大統領は退場しようとしている。闇の向こう側に光を見つけようとする粘り強い精神こそが、今最も要求されているのではないか。思考を停止させることなく、少なくとも次の時代を作っていく人たちにそのことを訴えていく気力だけは、決して失ってはならないと思わされている。