新型コロナウイルスの蔓延から数ヶ月を経て、東京では今も毎日感染者の報道が繰り返される。それでも社会は不安を抱えてはいるが、ようやく動き出している。全国の学校で全面休校から抜け出して対面授業が再開されている。登下校中の近所の小学生たちの嬉しそうな顔に出会いホッとしている。この数ヶ月の経験を経て、これから次の世代の子ども達に伝えるべき教訓は何であるかを考えている。
第一は、今当たり前と思っている前提を再吟味することの大切さだ。体験的に皆が理解したことであるが、失うことではじめて自覚できるものがあるように、私たちに与えられている環境や生活スタイル、対人関係や置かれている場のすべてが、ある瞬間に失われる可能性のあるものだと再認識させられた。別の言葉で言うと、今与えられている「この時」を、どれだけ意味あるものとする努力をしているか。私は今の時を生かすために最善を尽くしているかが問われているように思った。この体験を子どもと分かち合うことは大事なことだろう。
第二の点は、物事を自分の頭で考えて判断するための知見を養うことの必要性だ。科学的根拠のないまま、あるいはデータや情報が正確に開示されないまま決定される政策判断に接して、困惑することが非常に多かった。眼に映る情報の多くは識者たちの自己主張を繰り返しであり、メディアはそれに輪をかけるような報道を流し続けた数ヶ月を経験し、一体何が正しいのかと戸惑う日々が続いた。社会全体が何かに煽られているように感じていた。
客観的なエビデンスに基づかない言説、対話の積み重ねのない議論、過去の過ちを反省しない主張に巻き込まれないためには、情報を鵜呑みにせずに自分で正しく判断する力を育てることこそが大事なことではないか。そのためには科学的根拠に基づいた情報を選び取る能力を育てることが、教育の責任と言えるのではないかと考えていた。
第三は、過去の歴史に学ぶことの必要性だ。歴史的事実は様々な教訓を与えてきたはずだ。歴史がきちんと検証され、原因や問題点が明確になっていれば、同じ過ちを犯す愚かさは克服されるだろう。自然科学の分野ではその検証が科学の発展をもたらしたが、果たして人間の営みはどうであったか。公文書が改ざん、隠蔽、廃棄されることの重大性が厳しく問われないこの国で、歴史的事実は私たちの共有財産になっているだろうか。大本営発表を信じ、それを拡大させる役割をマスメディアが果たした戦争時の悲劇は、本当に検証され継承されてきただろうか。ペストやコレラ以来、何度か繰り返されてきた感染症への対応が、知恵として積み重ねられただろうか。何か洪水の後始末ばかりしてきたのではないか。受験のための知識獲得を超えて、歴史から学ぶことを学校教育は本気になって推進してきただろうか。
ちょうど感染者が急増していた4月当初に、絵本作家五味太郎氏がインタヴューに応えた記事が新聞に掲載されたが、「今みたいな時期こそ、自分で考える頭と敏感で時折きちんとサボれる体が必要だと思う。」ということばを再びかみしめてみる必要があるのではないかと思っている。