夏になると戦争の記憶について思い起こさせる記事や出来事が報道される。昭和の時代が、平成、令和、と二世代前の出来事になってしまったからだろうか、この夏は過去の「事実と真実」を伝えることの難しさが様々なところで取り上げられていたように思う。確かに74年という歳月は、歴史的事実を多くの人の記憶の彼方の出来事にしてしまっているようだ。自分自身が高校生の頃の74年前とは、日本では日清戦争の時代であり、それはその頃の高校生にとって遥か彼方の歴史上の出来事としてしかイメージできない昔のことであったのだから、今の高校生にとって太平洋戦争が実感を伴わないのは仕方ないことなのだろう。
この夏は、隣国である韓国との間の政治上の軋轢がしきりに報道されている。歴史という尺度の有無が両国の苛立ちを深めているのだろう。また対立を煽る双方のメディア報道や自己を優位な立場に置こうとするネット上の書き込みの過激さが、共生社会への願いに暗い影を落とし、自分自身の心にあるやり切れなさを助長させる。歴史を伝えるとはどういうことなのだろうか。過去から学ぶということは一体どういうことなのだろうか。
年を重ねてくるにつれ自分の中ではっきりしてきたものがある。それは自分が伝えているものは、自分のオリジナルな主張ではなく、自分に伝えられてきた「価値あるもの」であるということだ。自分が出会えたと思えた素敵なものを次の世代に伝えたいという思いが、教育の現場にいることを続けさせてくれたのだと思う。長い間教育の現場に立ち、今、次世代を担う教師たちや教師を目指す学生たちに伝えようとしていることは、結局先人たちから伝えられた人間の生み出した知恵や知識の数々であり、世代を超えて継承されてきた価値や文化の体系だ。この夏もそのために幾つもの研修会や講演会に呼ばれたが、できるだけ率直に自分の心の中に起こってきた教育の豊かさについて伝える仕事をしてきた。振り返ってみるとそれを伝えたい(手渡したい)ために教職という道を選択してきたのが自分の歩みであったのではないかと思う。
それにしても伝えようと思っても伝えるということは難しい。現代に通じる言葉に翻訳しながら、価値や知恵を手渡すことはなんと難しいことだろう。人は自分の原体験を前提に物事を理解しようとする。だから体験していないことを理解することはとても難しいことなのだろう。本来それを可能にするのは想像力、すなわち自分のイメージを作り変えていく力なのだが、洪水のように押し寄せる圧倒的な情報の中で、自分の想像力を働かせることはとても難しいことになってしまったようだ。少なくとも私自身もこれはとても大きな課題だと感じている。
それでも大切なものは人から人にしか伝わらない。本当に次世代にも必要なことを吟味しながら真実を込めて伝えていくことができるのか、それが自分自身の課題であることを考えさせられたこの夏の日々であった。この課題をさらに掘り下げて考えていきたい。