玉川聖学院 中等部・高等部

帰国子女入試合格発表

いつまでも残るもの
~この時代の教育を考える

いつまでも残るもの<br>~この時代の教育を考える

不安と向き合って

 新型コロナウイルスの蔓延により、世の中全体が騒然となっている。学校教育は大きな影響を受けて、年度末の大事な行事が混乱の中に置かれている。卒業式や終業式も形を変えて行わなければならなくなった。春休みの行事や諸活動も断念せざるを得ない状況だ。
 新型インフルエンザが流入して、目に見えぬ恐怖に襲われた11年前の出来事が思い返される。5月から秋まで戦々恐々とした日々だった。だが今回はその時と何かが違う。それは何なのだろうとずっと考えている。致死率や伝染の速度は変わりなくみえるが、有効な治療法やワクチンが見つかっていないからなのだろうか。グローバル化された社会では、水際で食い止め閉じこめることが困難だからなのだろうか。予想以上の不安が急速に広まっている。
 あの時も政権交代が起こる直前で政治は不安定だった。だが今回特に不安に思うのは、政治や行政に対する信頼感の欠如に起因しているように思える。繰り返される事実の隠蔽や改ざんの報道に接する中で、行政の判断に対する信頼性が乏しいことへの不安があるのではないか。首相一人だけに責任転嫁することはできないが、官僚体制や政治システムそのものが壊れかけているという恐れが、不安を助長しているように思えてならない。

 不安に襲われた時に人はどのように不安と向かい合っていくのだろう。極端な二つの方向に歩み出していくことを懸念する。一つは人がますます信じられなくなって、問題が過ぎ去るまで思考を停止させ、自分のことだけに関心を集中させてしまうことだ。自分の身を守ることに専念し、自分に都合の良い情報だけを選択し閉じこもる。自分のためには何をしても許されると思い込む。
 もう一つは不安を解消するために、感情のベクトルを他者に向けていくことだ。攻撃的な言葉、非難や断罪の言動がメディアやネット空間に飛び交う。怒りを発散させることで不安を解消しようとする。そのターゲットが、特定の個人、人々、地域、国や民族に向かいやすいところに危うさがある。誰かを攻撃する分、自分の不安は棚上げにされるからだ。これは悲しい人間の習性だ。
 不安な時代、人と人とのつながりは分断され、「人と人は支え合って生きていく」という人間が持つ人間性の本質の部分が損なわれてしまうことを恐ろしく思う。残念なことに意図的に分断を図ろうと声高に主張する人間も出てくる。

 子どもたちはこのような状況をどうとらえているのだろう。学校という安心と安全な居場所を突如奪われ、3月という区切りと節目の大切な時期に、家に閉じ込もるように大人から指示され、学校での集団的な体験を経験できないことで、人とのつながりが薄くなっていかないか心配だ。大人社会は子どもたちの教育を受ける権利をどのように確保しようとしているのだろうか。国連子どもの権利条約では、子どもは大人と対等の権利を持つことと、自ら発信することの出来にくい彼らの権利を守る義務を、大人社会が負っていることが規定されている。
 子どもたちだけではないだろう。社会的マイノリティ、弱さを抱えている人たち、社会的保護の必要な人たちを視野に入れ、経済的側面を含めて緊急時の共生社会のあり方をともに考えていくことが、この教訓を生かす道につながるのではないかと思う。問われているのは、私たちの社会の持つ想像力と包摂力なのだろう。