玉川聖学院 中等部・高等部

帰国子女入試合格発表

いつまでも残るもの
~この時代の教育を考える

いつまでも残るもの<br>~この時代の教育を考える

区切りのときを考える

学校というところは、日常の生活の中に「はじめ」があって「終わり」がある場所だ。今年も入学式では新入生たちの輝いた眼差しと、それを取り囲む新鮮で清々しい空気が満ち溢れていた。新しく始まるという予感をみなが共有していた。3月の卒業式では、中学高校の期間をやり終えたという充実感と、完結できたという達成感と誇らしげな華やかさが場を支配していた。この空気の中に身を置くことの幸いを体験できるのは、教師冥利に尽きるということなのかもしれない。確かに有限の時間を意識することで、人は生きることについて考えることが出来る。限りある時だからこそ、その意味を思い、時を大事に過ごすことへ、心が促されていくのだろう。

この4月のはじめ、日本中が新しい元号の発表のニュースに釘付けとなっていた。しきりに平成時代を振り返り、来るべき新しい時代への思いを掻き立てるニュースが流されていた。昭和の終わりが天皇の崩御であったために、自粛して喪に服すという空気があったからだろうか、今回のメディアのはしゃぎぶりがとても目につくと同時に、何か違和感を覚えていた。そしてこのような騒動が、今年はこれからも何回も大騒ぎが繰り広げられるのかと思うと、率直に言ってやりきれなさを感じてしまった。それは、政治的なパフォーマンスに戸惑いを覚えることでもあるが、それ以上に区切りのときの持つ意味が、非常に表層的であるこの国の体質を見せられているからかもしれない。

区切りのとき、振り返りのときは、立ち止まって自分自身を考える時ではないか。それまでの自分を冷静に顧みて、良さも欠点も含めた自分を位置づけ直す時なのではないか。少なくとも意識のベクトルの方向は自分の心の内側に向かっていく時なのではないかと思う。学校という場所で日常的に繰り返してきた区切りの時は、わが身を顧みるときであり、その延長線上に未来を見据えるときでもある。

国の歴史の中でも、節目となるような時がくることがある。敗戦や大震災の発生など、時代の区切りとなる出来事が時々起こってきたが、それは個人的にも社会としても、その時に立ち止まってそれまでの生き方を振り返るとともに、それを契機に新しい歩みが始まっていく出来事であったような気がする。その時に新しい扉が開かれて、新しい歩みが始められてきたのではないかと思うのだ。しかし、今回の騒がれ方は何か違うような気がする。「平成最後の・・・」とのフレーズが伝えられるたびに、根源的な問題が蔑ろにされつつある時代の空気を感じてしまっている。果たして元号が変わることが、私たちの生活が変わることなのだろうかと疑問を感じている。時代の空気に踊らされないようにと願わされている。

確かに人は区切りを持つことで、生活に節目が与えられる。季節や暦の上での節目感を失ってしまっている現代人にとって、この国独特の元号の改変は、区切りのときなのかもしれない。年の初めに何かを決意するように、これを契機に何かを変えたいと思う人もいるのかもしれない。しかし、表層的な社会状況を見る限り、メディアのお祭り騒ぎに踊らされているように思えてならない。世の中全体が思考停止状態に追い込まれているような空気に、ある種の恐ろしさを感じている。教育の現場は、やはり自分で考えること、主体的に判断する力を養う必要があるのだろう。この国の変化がそのような節目となることを願っている昨今だ。