本校では人間学講座の継続学習として、保護者(卒業生の保護者も半数近い)と共に、毎月1冊ずつ本を読む「読書会」を行っている。開始からすでに10年目となったが、数えてみると90冊の本を一緒に読むことができた。わかりやすいように内容をまとめ、要約するために毎回レジュメを作っているが、丁寧に本を読むことで発見できることも多かった。普段なら自分の関心のある部分だけに目を留めて、あとは読み飛ばしてしまうのが常なのだが、全体像を把握するためにはやはり読み込むことが大事で、そうすることで別のメッセージが伝わってくることを教えられている。
できるだけ分野が偏らないように、そして読んでいてわかりやすい内容の書物を選ぶのだが、どうしても自分の読書傾向がここでも出てしまう。そうであるにも関わらず、毎回熱心に集まる方々があることは幸いだ。保護者世代は学ぶことの楽しみを知っているのだろう。興味関心を持って、集まってこられる。そんな読書会が10年も続いているのは驚くべきことかもしれない。
今回3月の読書会では、アメリカに住むユダヤ人のラビであるH.S.クシュナーの「私の生きてきた証はどこにあるのか」(岩波現代文庫)という本を読んだ。内容は旧約聖書コヘレトの言葉を中心に「人生にどんな意味を見出せるか」を問いかける文章だが、引用されたユングやブーバー、デューイやフロムなどの知見が書き添えられていて、知識と知識が繋がっていく経験を追体験させてもらえる内容だった。旧約聖書の時代のコヘレト(伝道者)と呼ばれる人物が、人生遍歴の中である時は富や成功を求め、快楽と禁欲の狭間で揺れ動き、また感情を抹殺することで悲しみを逃避することを試み、あるいは理性や知恵に解決策を求めて探求を繰り返し、そして満たされぬ思いを既存の宗教や思想に向ける。しかしその中に「生きる意味の発見に到達できなかったコヘレト(伝道者)は、「なんという空しさ、すべては空しい」と告白せざるを得なかったと、著者は語っている。
しかしコヘレトはその絶望で留まるのではなく、その向こう側に希望を見出す。著者はこれを明らかにするとともに、日々の労苦に添えて与えられる楽しみを受け取って、毎日を暮らすことを勧めている。これが大人の生き方だと語りかけている。「人生は限りある資源を使い果たすのではなく、宝物を蓄積することと考えたらどうだろう。過ぎ去った過去の経験が人間を豊かにし、さらに人生を完成させていく余地が残されている。」と語りかけている。やや難解な文章だが、人生に起こるあらゆることを受け止めつつ、それを引き受けていくという主張は、現在の生活の中で様々な問題を抱えつつ生きている保護者世代には共感することが多かったようだ。
考えてみると、子どもの思春期の問題、自分自身の家庭や仕事の問題(夏の課題)、自分の親世代の老いと死の問題(秋と冬の課題)、それらが同時進行的に起こってきている中高生の保護者世代は、問題のどれ一つとっても心配の種であるが、それがある時には重なって押し寄せてくる感覚を味わうことがあるのだろう。そんな時、少し立ち止まって人生全体を鳥瞰して眺め直すという学びの時は意味ある時間なのだろう。読書会の最後に自分に伝わってきた事柄を互いに周囲の人たちと分かち合う時間があるが、語り合いの言葉の中に自分の置かれた状況を引き受けていく覚悟と勇気が与えられていることが伝わって来る。そんな午後のひと時を共に持てることは幸いなことだと思う。「人は最後まで成長できる」とトゥルニエは語ったが、本当にそうだと思う。また次の年度でも、柔らかい心を持って一緒に学びを続けたい。