先日、卒業生のための「成人式礼拝」の時が持たれた。高等部を卒業して約2年、華やかに着飾った晴れ着姿の卒業生たちが谷口ホールに戻ってきた。晴れ着と同じ髪型のせいか、皆同じように見えてしまい、なかなか名前が出てこなかったが、懐かしい顔を見ることができた。皆、一様に成長して大人になり、母校に戻ってくるのを楽しみにしていることが感じられた。
改めて考えてみると、学校という場所は時間をいう枠組みの中にすべての営みが置かれ、中高6年間という有限の時間を、どのように用いて自分を作っていくのかが問われている場所だと思う。学校に出来ることは、その場を提供して有意義な経験が重ねられるように、一人一人を支援していくことなのだろう。節目を設け、立ち止まって振り返り、そして決意してスタートする機会を設ける。その小さな繰り返しが学校生活を作っていく。生徒たちは、その営みの中に主体的に参加することで、充実感や達成感を味わっていく。また、犯してしまった失敗や挫折、マイナスの経験に意味を与え、再挑戦や記憶の上書きをすることで成長の契機としていく。物事を始めることで新しいことが始まり、驚くこと、気づくことで視野が広がり、人との関係の中で自分の考えが深まっていく。限られた時間の中でそんな思春期を送れる生徒たちは幸いだ。
大人になるということは、育てられる者から育てる者に立場を変えていくことだと言われる。民主主義社会は、自立した一人ひとりが自分で考え、判断し、社会参加していくことによって成立していく。この日を節目として、卒業生たちは自立した生き方を目指して歩み出していくのだろう。しかし今、世界は分断され、真偽の定かでない情報があふれ、人間を大事にしない物質主義や自己責任論が声高に主張される現代において、大人であり続けることは想像以上に難しいことなのかもしれない。昨今の風潮は、人権が蔑ろにされ、強い者たちが容赦なく人間の「良心の声」をかき消そうとしているように思われる。むしろ思考停止状態に自分を置いたほうが楽なように思えるのも事実だろう。「流される」とはそういうことを指すのだろう。
20歳という節目の時に、自らの魂の故郷に戻れる彼女たちは幸いだ。これから先、個人的にも人生の嵐や突然の出来事に遭遇することもあるだろう。自分の限界や高い壁に立ち尽くすこともあるかもしれない。時代の空気も変わっていくだろう。しかし、そういう時でも戻れる場所、立ち返るところを知っていることは幸いなことだ。たとえ、虚しく思える様々な出来事に直面したとしても、闇の彼方に光が存在していることを思い出すならば、どんな問題に対しても立ち向かえることを、体験を通して学ぶことができるだろう。そのことを確認するためにいつでも戻れる場所が提供されていることを心の底に記憶しておいて欲しいと心から願わされた。