玉川聖学院 中等部・高等部

いつまでも残るもの
~この時代の教育を考える

いつまでも残るもの<br>~この時代の教育を考える

関わりの中を生きる

 教育という営みはモノづくりと違って、すべてが「関わりの中」にある仕事だと言えるだろう。だから精密な企画書も、練られた計画書も、用意周到な準備も必要ではあるが、それによって関係性がいつも築けるというものではない。以前、校舎建築に際して、垣間見た建築家の仕事ぶりと比べると、ずいぶん異なった仕事だとつくづく感じたものだった。正確な設計図を描き、何度も図面を引き直し、定められた材料を用いて、寸分違わぬ組み立てをしていく。そうして完成された構造物は、立派に建築家の仕事の成果を示してくれる。そんな創造的な仕事を羨望の眼差しを持って眺めていたことを思い出す。

 一方教育の仕事は、どれが正解なのかがわからぬ仕事だ。精いっぱい考え、良かれと思って関わり、正しい成長のために壁となり、言葉を用いて対話し、目の前の子供達の成長のために心血を注ぐ。しかし、そのことが良かったかどうかは目に見える形では現れず、時に戸惑いと後悔の気持ちに襲われる。思わぬ喜びもあるが、意外な結果にも直面する。日々に変化していく生徒たちと寄り添っていくことは、思う以上に難しい。

 教育という仕事は、関わりの中にある仕事だ。関係は双方向だから、双方の心が向き合わないと仕事は成立しない。情報伝達だけなら機械的にできるかもしれない。昨今のAIの技術を持ってすれば、正確に効率良く知識は伝達されるだろう。教師はいなくても、知識の習得は出来るかもしれない。しかし本当に大切な物は、人から人に伝えられる。そして人格的な影響力の大きさは、人を変えうる可能性を持っている。そこに教育の醍醐味があり、だからこそ古代ギリシャ以来、学ぶための学校は意味を持ってきたのだろう。教師は関わりを通して大事なものの継承を促してきた。そこに私たちの仕事の奥義があるのだろう。

 先日、下北沢で沢知恵さんのコンサートを聴いてきた。アットホームな雰囲気の中で、彼女が大事にしているもの、伝えたいことが心に響いてくる良い時間を持つことができた。その中で、ハンセン病患者として瀬戸内海の大島青松園で一生を過ごした、詩人塔和子さんの詩に曲をつけて、心を込めて歌ってくれた「胸の泉に」という詩に感動を覚えた。こんな詩だ。

  関わらなければ この愛しさを知るすべはなかった
  この親しさは湧かなかった。
  この大らかな依存の安らいは得られなかった。
  この甘い思いや 寂しい思いも知らなかった。
  人は関わることから様々な思いを知る。
  子は親と関わり 親は子と関わることによって
  恋も友情も 関わることから始まって
  関わったがゆえに起こる。
  幸や不幸を 積み重ねて大きくなり
  繰り返すことで磨かれ
  そして人は 人の間で思いを削り
  思いを膨らませ 生を綴る。
  ああ 何億の人がいようとも
  関わらなければ 路傍の人。
  私の胸に 枯葉いちまいも
  落としてはくれない。
 

 関わりの中を生きることは、同時にアンビバレントな思いに包まれていく。プラスとマイナス、闇と光、喜びと悲しみ、絶望と希望、それらを味わうことは人生を知るということだろう。人格はこうして磨かれていくのだろう。そうだとすると、やはり教育という仕事、それは子育てや次世代を育てることにも通じることでもあるが、素晴らしい業なのだろう。私の胸にはどれだけの葉が落ちているだろう。

聖書の言葉
「牛がいなければ飼い葉桶はきれいだ。しかし、牛の力によって収穫は多くなる。」
(箴言 14:4)