玉川聖学院 中等部・高等部

いつまでも残るもの
~この時代の教育を考える

いつまでも残るもの<br>~この時代の教育を考える

新しい年に想った事

「平成から令和へ!」昨年、天皇の生前退位に伴い元号が変わったことを契機に、世の中全体に「新しい時代」を意識させるような言葉が飛び交った。今年の年明けも、「令和最初の・・・」という表現がしきりにマスメディアでは用いられていた。私はそのたびに何か違和感を感じ、戸惑いを覚えていた。確かに何かを契機に変わりたいという、社会全体の思いが代弁されているようにも思うのだが、本質が何も変わらないのに、いや今ある現実から目を閉ざすために、「新しくなる」ことが喧伝されているのではないか。そんな政治的あるいは社会的な意図に危うさを感じていたからであろう。

新年になると、私たちも何か新しくなるような気分を感じるのも事実だろう。そうしたいという思いが、過去を忘れさせ、未来に期待を抱かせる。むしろそのような節目を持つことで、人間の成長は促されてきたともいえよう。年中行事や通過儀礼には、そういう人間の思いを大事にする知恵や習わしが隠されている。それを否定する必要はないし、学校教育ではむしろ、そういう契機を大事にしていくことが期待されている。確かに人は一つの契機で変わることができる。しかしそのことが、過去を忘れさせるものだとしたら、その危うさは意識しなければならないだろう。私たちの国の文化の中に、過去を水に流すように、なかったものとしてしまう危うさがどこかに潜んでいることを忘れてはならない。

昨年来日したローマ教皇フランシスコは各地で印象的な言葉を残していったが、教皇自身が訪れることを切に願っていたと言われる広島でのスピーチ「良心を目覚めさせる力ある記憶を起爆剤に」は、人々の心に大変深く響く言葉だった。

「私たちは歴史から学ばなければなりません。記憶し、共に歩み、守ること。この三つは倫理的命令です。これらは、まさにここ広島において、より一層強く、普遍的な意味を持ちます。この三つには、平和となる真の道を切り開く力があります。従って、現在と将来の世代がここで起きた出来事を忘れるようなことがあってはなりません。」

「記憶し、共に歩み、守ること」との言葉には、それが実現されていない社会への悲しみと祈りがある。私たちの国は、大事なものが忘れられ、分断され、失われようとしていないか。教皇が言う「広島・長崎を体験した国」だからできる事が、蔑ろにされていないだろうか。戦争の記憶が薄れ、人と人・国と国とが分断され、莫大な犠牲の上に成立させてきた戦後民主主義の基本理念を失う道に進もうとしていないか。闇の濃さが増しているだけ余計に、教皇の言葉は伝わってくるように感じた。

新しい年が始まったが、それは今まで積み重ねてきたものの上に、さらに新しい出会いや発見をこの年に期待していくためのスタートの時なのではないか。昨年までの様々な自分の中に起こってきた断片が、統合されていくために備えられたスタートの時なのではないか。そんな思いを持ちながら、新年を迎えた2020年のスタートだった。