新年を迎えて新たな気持ちで2026年をスタートすることができた。生徒たちも冬休みを終え、3月までの一区切りの時期を開始式とともに再スタートしている様子を伺うことができる。学校という場所には、こういう「節目の時」が設定されていることは幸いだと思う。人は、節目や区切りの時を持つことで、過去を振り返り、気持ちを新たにすることができるからだ。
伝え聞くところによると、年が変わるという時期の過ごし方が大きく変化しているようだ。年中行事であった年末の大掃除を行う家庭は5割を切り、帰省する人も減少し、正月の過ごし方も変化していることが報じられている。年賀状のやり取りの習慣も激減しているようだ。時代の変化とも言えるが、節目意識が失われることで何かが失われていくのではないかと懸念する。
確かに現代社会の生活実感は個人の生活環境で大きく変わるし、個別のライフスタイルを持つことが自然なものになってきている。かつてのように皆で一緒に音楽を聴き、一緒にテレビを視聴することもなくなっている。個人の選択肢は広がり、自由に自分で時間を決定できるようになったように見える。
そうであるにも関わらず、現代に暮らす私たちは時間に生活が縛られているのではないだろうか。ミヒャエル・エンデの書いた児童文学作品「モモ」の中に、「時間泥棒」という灰色の男たちが出てくるが、時間を節約するように仕向けることを通して、人間の心の中にある空白が生み出す「考える時間」を奪おうとする力が働いていることが描かれている。
生産性・効率性を求める社会は、時間の観念を変えてしまったようだ。時間が人間を支配するようになり、ゴールの時間が設定され、それに向かってスケジュールを作り、時間配分を考え、時間内になすべき仕事をこなしていく。いつもゴールまでの残された時間を意識する「引き算の時間感覚」に支配されている。
個人的な生活も、全て「予約」をしていないと始まらない。街のレストランも予約なしには入れなくなってきている。時間が人を支配している。情報過多社会の辿り着く一つの到着地がここにあるように思われる。失ったものは余白時間。考え、思い巡らし、迷い、悩み、決断するための自分だけの時間を持つことが出来にくくなっている。
思春期から青年期、自分の人生をどう生きるのか悩み、考え、回り道をしながら自分のアイデンティティを確立していく時期に必要なのは、この孤独な空白の時間だったのだろう。だが簡単に答えを求めようとし、またそれが要求される現代社会は、彼らから本来の人間的な成熟に向かう道筋を奪ってしまっているのではないか。
こういう時代だからこそ、「立ち止まって考える機会」を提供することが必要なのだろう。学校生活の中での「節目の時」を大事にすることで、本来人間に備わっている、自己を見つめる洞察力が芽生えてくるのかもしれない。ミッションスクールの幸いは日常の中に「礼拝の時間」が設定されていることだ。「心を静める時間」を持つことで、一人一人の子供たちが心の空白から生まれる自己意識を深めていくことを期待したい。