玉川聖学院 中等部・高等部

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礼拝のことば
~心を耕し、磨く

礼拝のことば<br>~心を耕し、磨く

中等部入学式 説教

聖書箇所 ヨハネの福音書15:9
「父が私を愛されたように、私もあなたがたを愛しました。私の愛の中にとどまりなさい。」

玉川聖学院中等部、新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。
保護者の皆様にも、心からのお祝いを申し上げます。
 皆さん、玉川聖学院にようこそ!今日から皆さんはこの学校の生徒です。皆さんはこれから、この学校の中で、たくさんの出会い、たくさんのよい体験を十分に吸い込んで、学んでいくことでしょう。

 今日は、これから皆さんがこの学校で見つけていくことを、一つだけ、紹介しましょう。それは、「かけがえのない私の発見」です。
皆さんは、生まれたときから、「私」として生きてきましたね。ずっと自分は自分でした。途中で他の人になったことのある人はいないでしょう? がんばったらほめられた、みんなが注目してくれた、というときに、自分のことをいいなと思うことがあったと思います。でも、あまりがんばれなかったとき、みんなが自分がいることを忘れているような気がしたときも、何もしていなくても、そのままそこにいるだけで、皆さんは、特別な、かけがえのない私だった、ということを知っているでしょうか。私たちは、ずっと自分を生きていて、自分のことを知っているはずなのに、自分がかけがえのない人だという事実について、あまりわかっていないことが多いのです。

 かけがえのない私、に本当に気づくには、誰かに大切にされている、愛されている、ということを、心と体で体験していくことが必要です。例えば、想像してみてください。誰か、それほど親しくなかった人で、でもすてきな人に、皆さんがある日突然こんな風に言われたとします。「あなたとずっと、友達になりたいと思っていたの。」「あなたとたくさんおしゃべりして、仲良くなりたいと思っていたの。」もし、そんなことを言われたら、皆さんはこう思うのではないでしょうか。「え、私、そんな風に思われていたんだ。」「私にそんなところがあるんだ。」そして「そんな風に思ってもらえる私なんだ」と、自分が大切にされる存在なのだということを、再発見するのではないでしょうか。
玉川聖学院では、そんな発見が、毎朝の礼拝の中で繰り返されます。今日読んだ聖書の言葉にはこうあります。
「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。」
聖書の中で、「父」という言葉が出てきたら、それは大体神様のことを指します。私たちをあたたかく、確かに、育てて守ってくれる、お父さんのような神様、そして私たちの自分のお父さん以上の大きな神様、という意味を持っています。また、この文章は、イエス・キリストという人の言葉の一部分ですから、「わたし」とはイエス・キリストのことを指します。この方は、人間であったのですが、神の子でもあり救い主なのだ、と、聖書は紹介しています。「あなたがた」は、イエスの弟子のことを指しているので、ここにいる私たちみんなを指していると考えてよいでしょう。イエスはここで、「私は、父である神に自分が愛されていることを知っている。それと同じ愛し方で、あなたを愛してきた。この愛がわかったら、それを自分の中にしっかり受け取っていくんだよ。」と言っています。

 皆さんの聖書に挟んであるしおりに書かれているのは、今日読んだこの聖書の言葉の「わたしの愛の中にとどまりなさい」という部分を英語にしたものです。これは、これから2年間の玉川聖学院の学校目標です。毎朝の礼拝の中で、私たちは、神の愛、イエスの愛を知っていきます。このしおりを見る度に、自分が神に愛されている、かけがえのない私であることを、自分に思い起こさせていただきたいと思うのです。

 神の、イエスの愛を知っていくとき、恐かったり、心配したりする心が小さくなっていきます。代わりに、もっとやってみよう、あの子に話しかけてみよう、という心が大きくなっていくに違いありません。
 これからの皆さんの玉川聖学院での生活が豊かなものになるように、最後にお祈りさせてください。

 天にいらっしゃる神様。
 ここにいるひとりひとりを、今年玉川聖学院にお送りくださり、ありがとうございます。これから始まる生活を祝福し、よい出会いを与え、あなたに愛されている安心感の中で、豊かな学校生活を送れるようにお助け下さい。今まで愛し、いつくしんで育ててこられた保護者のお一人お一人も、あなたの守りによって支えられ、これからの成長を喜んでいく日々が与えられますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。