新約聖書 マタイの福音書26章45~46節
「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。
立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づいてきました。」
どう考えればよいのかわからないとき、つらすぎるとき、私たちは眠ってしまいます。祈れと言われても、本当に悲しいときには、どう祈ったらよいのかわからなくて、心が閉じてしまう感じです。私たちの中でも、今まさにそのような思いになっている人がいるのではないでしょうか。
イエスが十字架にかけられる前の晩、弟子たちもそんな気持ちだったと思います。
「イエス様は本当につらそうに祈っている。一体これから何が起こるというのだろう。私たちはどうなってしまうのだろう…。」そう思いながらも、弟子たちは眠りに落ちてしまうのです。
そんな弟子たち、そして私たちに対して、イエスは「そろそろ起きなさい」と呼びかけます。
「起きて、ちゃんと見ていなさい。」
これから起こることを、見ていてほしいというのです。
イエスが見せようとしているのは、自分が仲間に裏切られて、捕縛される現場でした。そんな場面を人に見られたい人なんていません。しかしイエスは、弟子たちにしっかり見ていてほしかったのです。まったく抵抗せずに連れていかれる自分を。ののしられながら殺されていく姿を。イエスが予告していた通りのことが、すべて実現していく様を。そのプロセスの詳細が、すでに旧約聖書に救い主の姿として紹介されているものと、怖いぐらいに合致していることを。
「立って、一緒に行こう。」
そう促されながらも、弟子たちがこの後イエスについていけるのは、ほんの数歩だけでした。彼らは武装した兵士たちを見て逃げていきます。そしてイエスも彼らを逃がします。この時イエスが弟子たちに求めていたのは、自分と一緒に死ぬことではありませんでした。むしろ、これから起こることを、離れた場所からでもしっかり見て、心に刻んでほしかったのだと思います。なぜなら、やがてこの出来事の意味が彼らにわかる日が来て、今の悲しみが感謝に変わるときが来るからです。
その日は確かに彼らを待っていました。イエスの死を経て、イエスの復活がありました。復活は死の絶望を覆し、かつて持っていた希望よりもはるかに力強い希望を彼らは知るに至ります。イエスの死という喪失の経験は、本当のいのちを獲得するために、彼らが通らなければいけないものだったのです。
私たちの喪失からも、やがて新しいいのちが生まれます。ここを通らなければわからなかった祝福の泉が、今、私たちの心の中に、痛みをともないながら、深く掘り下げられているのではないでしょうか。
【祈り】
天のお父様。希望を失うときに、あなたの励ましを与えてください。この状況のただ中で、これから私たちが見ること、体験することの中に、あなたの答えが隠されているならば、それを見出させてください。
イエス・キリストの御名前によってお祈りします。アーメン。